遅れてきた忘備録として。「ジャックとその主人」(ミラン・クンデラ著 近藤真理訳,みすず書房 1996)を読了。この本は,昨年の暮れに上田市の古書店NABOで購入した3冊のうちの1冊。たまたまなのだが,他の2冊もみすず書房の本だった。クッツェーとサイードはまだ手をつけていない。
「ジャックとその主人」はディドロの小説「運命論者ジャックとその主人」を自由に変奏した戯曲ということ。しかし,私はディドロを知らない。小説の序文としてクンデラは小説の技法と自作への解題を書いているのだが,この中でディドロとローレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」の違いを明快に説いている。
この序文を読んで,私はある人物を思い出さずにいられなかった。この人は一体,どれほどのスピードで1冊の本を読み,その中身をすべて脳内のメモリーに収めているのか,ただただ驚愕するばかりの人。その人が,今までに読んだ小説で一番面白かったと言っていたのが「トリストラム・シャンディ」だった。そして私は「トリストラム・シャンディ」に挑戦してみたが,何だかよくわからない小説だった。ページが真っ黒だったりするのだ。
その人はクンデラも愛読していて,職場の移動の際,私に何冊かのクンデラを手渡してくれたのだが,クンデラが「トリストラム・シャンディ」を「小説の大きな可能性の一つを実現している」と取り上げていたのを知っていたのだろうか。もちろん,知っていたに違いない。活字になっているどんな小さな情報も彼の脳内には蓄積されているはずだから。
肝心の「ジャックとその主人」よりも,「クンデラを読む」というその至福の読書の体験を,その人に報告して私の知らない世界をまた教示してほしいものだ,という思いの方が強い。読書は思いもかけない感情を日常に呼び覚ます。