2026-03-01

2026年3月,2月のコンサート・映画の記録,「角野隼斗」・「黒の牛」

 2月は展覧会の他にコンサートと映画にもでかけました。忘備録として。

 水戸にでかけて角野隼斗ピアノリサイタルChopin Orbitを聴く。これだけの人気だと,もはや気恥ずかしさすら感じてしまうけれど,やはり好きなものは好きってことでいそいそと特急ひたちに乗り込む。グロービスホールの特徴的な内装は梅の花びら? こじんまりとしたホールで,演奏者との親密な距離感がよい感じ。アデスとかヒナステラとか,未知の作曲家との出会いは多幸感にあふれる。水戸は梅の満開には少し早かった。

 2月は楽しみにしていた映画「黒の牛」にもでかける。 「十牛図」に着想を得た映画っていったいどんな?と思いつつ,その圧倒的な映像美と深い物語に感動。つまりはこの映画の「物語」とは「十牛図」を生きるということなんだ。第八図「人牛倶忘」の真っ白な図はどうやって?とか,あれ,第九図で終わった?とかとにかく「十牛図」を辿る2時間だった。こういう映画にはやっぱり坂本龍一の音楽が欠かせないよね,という感じ。禅僧役の田中泯も聖と俗を生きる感じがよかった。第十図「入鄽垂手」についてはネタバレになるので内緒。

2026年3月,2月の展覧会の記録,「八大山人」・「デューラー」・「ここにいるから」・「ロックフェラー・コレクション」展

 2月の展覧会の記録を忘備録として時系列に。どれも楽しかったけれど,ゆっくり振り返る心身の余裕がなかった。参考に読みたい本が何冊もあるので,読み終えてからまた書き残すかも。とりあえずは鶯谷の書道博物館で「明末清初の書画 八大山人 生誕400年記念」から。生誕400年とはスケールが大きいな,とまず感心。泉屋博古館蔵の安晩帖の展示は期間が限定で,再会叶わず。蘭亭序の臨書が圧倒的だった。
 上野では西洋美術館ですばらしい特集展示を2つ。「物語る黒線たち―デューラー『三大書物』の木版画」はとにかくすごい熱量の展示。「黙示録」「大受難伝」「聖母伝」の活字印刷本の木版画群を「一挙にすべて公開」するという。美術館の意気込みと鑑賞者の感動が一直線!である。美術展鑑賞の醍醐味を味わう。前川誠郎著のデューラーの伝記を読みたい。同時に常設展内特集展示の「フルーニング美術館・国立西洋美術館所蔵フランドル聖人伝板絵―100年越しの”再会”」展も知的興奮にあふれる内容でお腹いっぱいに。
 横浜美術館では「いつもとなりにいるから 日本と韓国,アートの80年」展を。ソウルの現代美術館と共同企画ということ。80年を時系列にたどっているので,まさにいつもとなりにいる国とのつながりをアートという切り口で考えることができる貴重な体験だった。ナムジュンパイクのビデオアートなども充実していて,体調がよければじっくり時間をかけたかったのが本音。
 千葉市美術館の「ロックフェラー・コレクション 花鳥版画展 北斎・広重を中心に」展を最終週に駆け込んで見る。昨年は大河ドラマの関係で浮世絵展をあちこちで見たけれど,今展は花鳥画に絞ったコレクションなのでかなり新鮮。優しい気持ちで見ることができるというか。こういう感覚こそを「癒される」というのだろうなあと独り言ちる。写真撮影可の作品も点数が絞られていて,撮影合戦に巻き込まれることなく楽しめる。撮りましたが。この北斎「鷽 垂桜」を見たくて千葉まで行ったようなもの。イザベル・アジェンデ「日本人の恋びと」の装丁に使われているゴッホのアーモンドの花の絵は,この北斎作品をリスペクトしてるのじゃないかなあ。背景の藍の色も桜の枝と小禽の構図も理屈抜きに好きなんだ。

2026-02-22

2026年2月,シンビジウムの開花

 随分と間を空けてしまいました。ほんの短い期間でしたが入院していて,やはり身体の不調はメンタルにとっても辛いものですね,ようやく文字通りに心身ともに回復傾向です。病理検査の結果が出るまでは不安な日が続きますが,普段通りの生活で大丈夫ということで,少しずつ外出も。入院前に出かけたいくつかの展覧会もあるので近いうちに忘備録を残します。以前,旅先の上田で買い求めた蘭が昨年に続いて開花しました。ラベルがなかったのですが,たぶんシンビジウムの原種に近いのではと思います。美しくて,何だか泣きそうになる。

2026-01-30

2026年1月,展覧会・観劇・読書の記録,「サド侯爵夫人」ほか

 この1月,記録に残していないものがいくつかあって,まとめて忘備録として。紀伊国屋サザンシアターで宮本亜門演出の「サド侯爵夫人」を観る。6人の登場人物はオール男性キャストで,主演は成宮寛貴。舞台の評判はよいみたいけど,個人的には三島由紀夫の戯作世界とはちょっと違うなという感が否めない。新潮文庫を読み返す。
 谷崎由依「百日と無限の夜」(集英社 2025)読了。「出産幻想文学」なのだそう。「隅田川」と「班女」が重要なモチーフになっているというので読んでみた。確かに「出産幻想文学」だった。確信的に「隅田川」の物狂いの女と「班女」の花子が同一人物として描かれているけれど,あくまで「隅田川」のシテは物狂いの女であって,「花子」として登場しているわけではないのでは? 語りが一人称から三人称になったり時制が行ったり来たり,凝った小説だなあとは思う。では,この小説の「物語」とは何なのか,読み終えて何だかよくわからない疲労感。
 話題になってる映画「落下の王国」を観に行く。これは文句なし(?)に面白かった。ロケ地や衣装の美しさはもちろんのこと,この勇者たちの旅の「物語」が美しく,見終えて驚きと喜びに包まれる。ラダックはいつか行きたいとずっと想い続けているけれど,体力的に不安を覚える昨今,美しい映像は無上の喜び! タージ・マハルはもちろん,ファテブル・シクリの庭園やアグラ城などなど,楽しかったインド旅行を思い出して興奮! 
 六本木の泉屋博古館東京では鹿子木孟郎展を見る。近代の日本洋画に本格的な「写実」表現をもたらした画家の画業を堪能する。「木の幹」(制作年不詳),「加茂の競馬」(1913)などなど。

2026-01-23

読んだ本,「マルコヴァルドさんの四季」(イタロ・カルヴィーノ)

 「マルコヴァルドさんの四季」(イタロ・カルヴィーノ 関口英子訳  岩波少年文庫 2009)読了。きっかけは読み返した武満徹の「時間の園丁」の中で,ベルリンに滞在中の約1週間,音楽会に出かけるまでのホテルでの時間をほとんどこの本を読んで過ごしたという逸話を読んだこと。(彼が読んだのは英訳本だけど。)「カルヴィーノの記述にはユーモアが充溢し,読む間笑いが止まらず,時間が経つのを忘れてしまうほどだった。それでいて読後の余韻は長く,また深く重い。」(「時間の園丁」p.48)

 邦訳が出ているので嬉しい。岩波少年文庫に入っているけれど,大人が読んでこそ,マルコヴァルドさんという貧しい労働者の眼を通した自然への畏怖,荒廃した都会と人間への批判,それらの先にある人間存在を肯定する美しい魂の存在などなどに深く共感するのではないだろうか。

 20編のどの一つも美しい。とりわけ私の心には「まちがった停留所」のちょっと不穏でシュールな感じが面白く響いた。バス停を探し続けたマルコヴァルドさんが歩道から飛び降りて,乗り込んだのは,インドへ旅立つ飛行機だった。家に帰るための停留所をずっと探し続けて,運ばれていく先は見知らぬ世界だったのだ。でも彼はそのまま窓の外を眺めて飛び続ける。

2026-01-14

読んだ本,「根も葉もある植物のはなし」(塚谷裕一)

 「根も葉もある植物のはなし その多様なすがた・かたちについて」(塚谷裕一 山と渓谷社 2025)読了。とにかく楽しく美しい読書の時間だった。次々と息を呑むような写真が頁を彩り,「(略)自分が子どもだった頃にあったら読みたかった内容になるように書いてみた。何度も昔からコピー&ペーストの繰り返しで焼き直されてきたような,ありきたりの説明は,そもそも書く気になれない。読むほうだって飽き飽きするだろう」(まえがき pp.2-3)という説明が読む手を休ませない。

 「葉」「花」「果実、種子」「茎、枝、幹」「根」の六章から構成される。どの章のどの項も忘れ難いが,表紙にもなっている「ヒスイカズラ」の項「蒼に咲く」にすっかり魅了される。著者が園長を務めている小石川植物園の新温室にこの株の子孫が育っているとのこと。ぜひこの「蒼」の色を見に行かなくちゃ。

 「黒い花」や「タシロ氏」の項など,私には「花」の章がインパクトが大きかったかな。「色づく」の項では赤い大根の色彩の妙にもびっくり。中国大根の長安青丸紅芯の実物を是非見たい(食したい)と思ったけど,簡単には手に入らないみたい。そこで普通のというか,国産の市場に出回っている赤大根を買ってきた。サラダか漬物くらいしか思いつかないけど,本書によればおろしも美味らしい。早速試してみた。なるほど,甘みが濃い感じ。


2026-01-09

2026年1月,東京恵比寿,「作家の現在 これまでとこれから」

 ガラスに新春の街が写り込む。恵比寿にでかけて東京都写真美術館開館30周年記念展の「作家の現在 これまでとこれから State of the Artist: So Far and From Now On」展を見に行く。タイトルの英訳はそのまんまじゃん,という感じで,一ひねりあってもよかったのでは,などと生意気なことを考える。

 「作家」は石内都,志賀理恵子,金村修,藤岡亜弥,川田喜久治という錚々たる5人。フライヤーの金村修の写真が1993年撮影のものなので,とにかく彼の「現在」「これから」が知りたいとはやる気持ちで会場を進む。

 そして金村修の「現在」を目の当たりにしたとき,それは「衝撃」としか言いようがなかったのだ。作家のコーナーの最初は『System Crash for Hi-Fi』というタイトルの20枚組で,暗室のアクシデントの痕跡が写真を「破壊」している。近年取り組んでいるというコラージュやドローイングの,余白を埋め尽くして反復する細密な線は,何か狂気性を想起させるものに見えてしまう。

 解説を読むと,これらは「彼の写真作品に通底する衝動-すなわち,都市の構造とエネルギーを視覚化しようという欲望を思わせる。そこには,作家としての揺るぎない視点と,メディウムを超えて世界を構築する力がある。」とのこと。そうか,私が「これまで」見ていた写真作品にこそ彼の本質があり,「現在」の姿は決して「衝撃的」などではなく,必然の「これまでの未来」の姿なのか。

 とにかくも私の(やわな)マインドが衝撃を受けたことには変わりなく,ちょっとフラフラになりながら会場を進む。川田喜久治のコーナーでボマルツォの怪物公園の1枚を見る。悪趣味でありながらも,フラフラのマインドには「見たことがある」風景の写真として,寧ろほっと安心して眺めてしまう。

 写真美術館では,日本の新進作家シリーズvol.22「遠い窓へ」展も見る。寺田健人の「想像上の妻と娘にケーキを買って帰る」シリーズがおもしろかった。