2026-01-30

2026年1月,展覧会・観劇・読書の記録,「サド侯爵夫人」ほか

 この1月,記録に残していないものがいくつかあって,まとめて忘備録として。紀伊国屋サザンシアターで宮本亜門演出の「サド侯爵夫人」を観る。6人の登場人物はオール男性キャストで,主演は成宮寛貴。舞台の評判はよいみたいけど,個人的には三島由紀夫の戯作世界とはちょっと違うなという感が否めない。新潮文庫を読み返す。
 谷崎由依「百日と無限の夜」(集英社 2025)読了。「出産幻想文学」なのだそう。「隅田川」と「班女」が重要なモチーフになっているというので読んでみた。確かに「出産幻想文学」だった。確信的に「隅田川」の物狂いの女と「班女」の花子が同一人物として描かれているけれど,あくまで「隅田川」のシテは物狂いの女であって,「花子」として登場しているわけではないのでは? 語りが一人称から三人称になったり時制が行ったり来たり,凝った小説だなあとは思う。では,この小説の「物語」とは何なのか,読み終えて何だかよくわからない疲労感。
 話題になってる映画「落下の王国」を観に行く。これは文句なし(?)に面白かった。ロケ地や衣装の美しさはもちろんのこと,この勇者たちの旅の「物語」が美しく,見終えて驚きと喜びに包まれる。ラダックはいつか行きたいとずっと想い続けているけれど,体力的に不安を覚える昨今,美しい映像は無上の喜び! タージ・マハルはもちろん,ファテブル・シクリの庭園やアグラ城などなど,楽しかったインド旅行を思い出して興奮! 
 六本木の泉屋博古館東京では鹿子木孟郎展を見る。近代の日本洋画に本格的な「写実」表現をもたらした画家の画業を堪能する。「木の幹」(制作年不詳),「加茂の競馬」(1913)などなど。

2026-01-23

読んだ本,「マルコヴァルドさんの四季」(イタロ・カルヴィーノ)

 「マルコヴァルドさんの四季」(イタロ・カルヴィーノ 関口英子訳  岩波少年文庫 2009)読了。きっかけは読み返した武満徹の「時間の園丁」の中で,ベルリンに滞在中の約1週間,音楽会に出かけるまでのホテルでの時間をほとんどこの本を読んで過ごしたという逸話を読んだこと。(彼が読んだのは英訳本だけど。)「カルヴィーノの記述にはユーモアが充溢し,読む間笑いが止まらず,時間が経つのを忘れてしまうほどだった。それでいて読後の余韻は長く,また深く重い。」(「時間の園丁」p.48)

 邦訳が出ているので嬉しい。岩波少年文庫に入っているけれど,大人が読んでこそ,マルコヴァルドさんという貧しい労働者の眼を通した自然への畏怖,荒廃した都会と人間への批判,それらの先にある人間存在を肯定する美しい魂の存在などなどに深く共感するのではないだろうか。

 20編のどの一つも美しい。とりわけ私の心には「まちがった停留所」のちょっと不穏でシュールな感じが面白く響いた。バス停を探し続けたマルコヴァルドさんが歩道から飛び降りて,乗り込んだのは,インドへ旅立つ飛行機だった。家に帰るための停留所をずっと探し続けて,運ばれていく先は見知らぬ世界だったのだ。でも彼はそのまま窓の外を眺めて飛び続ける。

2026-01-14

読んだ本,「根も葉もある植物のはなし」(塚谷裕一)

 「根も葉もある植物のはなし その多様なすがた・かたちについて」(塚谷裕一 山と渓谷社 2025)読了。とにかく楽しく美しい読書の時間だった。次々と息を呑むような写真が頁を彩り,「(略)自分が子どもだった頃にあったら読みたかった内容になるように書いてみた。何度も昔からコピー&ペーストの繰り返しで焼き直されてきたような,ありきたりの説明は,そもそも書く気になれない。読むほうだって飽き飽きするだろう」(まえがき pp.2-3)という説明が読む手を休ませない。

 「葉」「花」「果実、種子」「茎、枝、幹」「根」の六章から構成される。どの章のどの項も忘れ難いが,表紙にもなっている「ヒスイカズラ」の項「蒼に咲く」にすっかり魅了される。著者が園長を務めている小石川植物園の新温室にこの株の子孫が育っているとのこと。ぜひこの「蒼」の色を見に行かなくちゃ。

 「黒い花」や「タシロ氏」の項など,私には「花」の章がインパクトが大きかったかな。「色づく」の項では赤い大根の色彩の妙にもびっくり。中国大根の長安青丸紅芯の実物を是非見たい(食したい)と思ったけど,簡単には手に入らないみたい。そこで普通のというか,国産の市場に出回っている赤大根を買ってきた。サラダか漬物くらいしか思いつかないけど,本書によればおろしも美味らしい。早速試してみた。なるほど,甘みが濃い感じ。


2026-01-09

2026年1月,東京恵比寿,「作家の現在 これまでとこれから」

 ガラスに新春の街が写り込む。恵比寿にでかけて東京都写真美術館開館30周年記念展の「作家の現在 これまでとこれから State of the Artist: So Far and From Now On」展を見に行く。タイトルの英訳はそのまんまじゃん,という感じで,一ひねりあってもよかったのでは,などと生意気なことを考える。

 「作家」は石内都,志賀理恵子,金村修,藤岡亜弥,川田喜久治という錚々たる5人。フライヤーの金村修の写真が1993年撮影のものなので,とにかく彼の「現在」「これから」が知りたいとはやる気持ちで会場を進む。

 そして金村修の「現在」を目の当たりにしたとき,それは「衝撃」としか言いようがなかったのだ。作家のコーナーの最初は『System Crash for Hi-Fi』というタイトルの20枚組で,暗室のアクシデントの痕跡が写真を「破壊」している。近年取り組んでいるというコラージュやドローイングの,余白を埋め尽くして反復する細密な線は,何か狂気性を想起させるものに見えてしまう。

 解説を読むと,これらは「彼の写真作品に通底する衝動-すなわち,都市の構造とエネルギーを視覚化しようという欲望を思わせる。そこには,作家としての揺るぎない視点と,メディウムを超えて世界を構築する力がある。」とのこと。そうか,私が「これまで」見ていた写真作品にこそ彼の本質があり,「現在」の姿は決して「衝撃的」などではなく,必然の「これまでの未来」の姿なのか。

 とにかくも私の(やわな)マインドが衝撃を受けたことには変わりなく,ちょっとフラフラになりながら会場を進む。川田喜久治のコーナーでボマルツォの怪物公園の1枚を見る。悪趣味でありながらも,フラフラのマインドには「見たことがある」風景の写真として,寧ろほっと安心して眺めてしまう。

 写真美術館では,日本の新進作家シリーズvol.22「遠い窓へ」展も見る。寺田健人の「想像上の妻と娘にケーキを買って帰る」シリーズがおもしろかった。

2026-01-07

読んだ本,「怖くて美しい能の女たち」(林望)

 年末年始にかけて「怖くて美しい能の女たち」(林望 草思社, 2025)読了。林氏の能の解説書を読むのは初めて。初心者向けとあるが,「葵上」「野宮」「紅葉狩」「巴」「隅田川」「道成寺」「砧」「姨捨」の八曲を取り上げて,その原拠となった先行文学作品との詳しい比較や,民俗学的な考察なども含めた解説は深く,示唆に富む内容でとても勉強になった。

 昨年4月から某私大で同様の講座を受講していて,「源氏物語」や「平家物語」などの先行文学をいかに能作者が「能」という舞台芸術に昇華していくかという視点で詞章を読むことの楽しさを実感している。本書でも「女」という切り口で著者が選んだ八曲を精読する楽しさを味わえた。

 なぜ「女」が切り口なのか。序文にこうある(抜粋)。「能は一般的には「男の世界」であった。しかし,それゆえにどうやって男の能役者が「女」を表現するか,またその能役者が作者を兼ねる世界ゆえ,どのように能作者が「女」を描くことに智慧を絞ったか,ということでは,古来先人たちも並々ならぬ努力を重ねてきたにちがいない。/いや,そもそも,女を描くことは即ち男を描くことでもある。その意味で,能は,男女関係はもとより,親子の情,人と神の交感,怨みと癒やし,信仰と諦念,などなど人情の自然を深く考察し描いてきた芸能で,表面上の「難解さ」を腑分けして理解してみれば,そこに驚くほど自然な人情の機微が現れてくる。」(pp.4-5)

 こういう視点で描かれた八曲の解説はどれも興味深いが,特に最後の「姥捨」が個人的に印象に残った。日々「老い」を実感する年齢になったからだろうか。「わが心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照る月をみて」の歌は,「大和物語」では伯母を捨てた甥が詠んだとされ,「俊頼髄脳」では捨てられた伯母自身が詠んだとされる。

 ここで著者は,「その捨てられた伯母が,絶望的な孤独のなかで悄然と詠んだとするほうが,この歌の思いははるかに切実にながめられる」とし,「作者世阿弥が,老いの孤独ということを,どこまで切実に考えたかということを,こういう作劇のありようが物語っているように思われる」と述べている(p221)。

 「姨捨」の舞台は見たことがある気がするが,はっきりと記憶にない。近いうちに,どこかの能楽堂で演じられるのをぜひ見に行きたいものだと思う。きっと,無限の孤独のうちに取り残される老女の切実な思いを,理解できるような気がするから。

2026年1月,東京東銀座,「寿初春大歌舞伎」

 新しい年の初めは歌舞伎座から。何と言っても右近の八変化が楽しみな「蜘蛛絲梓弦(くものいとあずさのゆみはり)」がお目当て。見事な八役早替わりで,それぞれの役が魅力たっぷり(どの役も同じに見えない!)で,とにかくエネルギッシュな舞台がお正月気分を盛り上げます。隼人と巳之助と三人の舞踊シーンもあって,この三人はほんとに絵になります。これぞ歌舞伎の芸の世界をつないでいく若手の活躍!って感じ。

 音楽は常磐津と長唄の掛け合い。そのそれぞれの魅力も楽しめる演目でした。昼の部はほかに,お目出たい3つのプログラムの「當午歳歌舞伎賑」と勘九郎が斎藤別当実盛を演じる「源平布引滝 実盛物語」。勘九郎は貫禄たっぷり。とってもかわいい子役の守田緒兜くんは巳之助の息子。

 実盛が後に髪を染めて戦って首を討ち取られるという後日譚は,子どものころ加賀の「首洗池」が小学校のバス遠足の定番コースで,毎年のようにバスガイドさんの説明を聞くたびに哀しい武士のお話だなあと子ども心に思ったものでした。こういうのって何十年たっても思い出すものだな,とそんなことをしみじみ思ったお正月。

2025-12-30

2025年12月,東京六本木ほか,展覧会の記録

 12月の忘備録として。フジフィルムスクエアにエドワード・マイブリッジの写真を見に行く。「連続写真に取り憑かれた男」という副タイトルがついている。取り憑かれたっていうのは穏やかじゃないな,と思いつつも,その生涯と撮影手法の詳しい解説を読むとなるほど,である。

 マイブリッジの連続写真は写真史の展覧会とかで数点ずつ見たことはあるけれど,まとまった形で見るのは初めてでちょっと感激。プリントは19世紀末のオリジナルではなくて,富士フィルムが所蔵するフォトグラヴィアの展示。関連書籍は原本の展示。 

 四谷の韓国文化院に「浅川兄弟の遺した道」という展示を見に行く。兄弟の旧蔵の朝鮮陶磁器などの展示がメインかと思っていたら,それらは展示の一部で,むしろ彼らの生涯そのものを丁寧に紹介する企画展。夥しい数の付箋がそれ自体美しい「朝鮮半島窯跡分布図」はまさに彼らが辿った軌跡を示すもの。記念講演会も聴講した。北杜市に浅川兄弟の資料館があるらしい。暖かくなったら行ってみたい。それまでに復習しておかなくちゃ。 
 12月はほかに,山種美術館で「LOVE いとおしい…っ!」展を見る。タイトルで損してるのではないかと思うけど,中身は濃い展示で見ごたえたっぷり。LOVEが題材の日本画といえば,浄瑠璃や能・歌舞伎を題材にしたものが多くて,画面から物語が立ち上がってくるものばかり。小林古径の「清姫」の連作は全8点が展示されていて,お能や歌舞伎のそれぞれの場面を思い出して興奮!