2026-07-08

読んだ本,「地衣類,ミニマルな抵抗」(ヴァンサン・ゾンカ)


 「地衣類,ミニマルな抵抗」(ヴァンサン・ゾンカ著 宮林寛訳 みすず書房,2023)読了。不思議な書物だ。どんな風に不思議なのか,植物分類学の博士である大村嘉人氏のまえがきから引用させてもらうと,「本書は,地衣類を通じて,時や空間を超えて異なる世界あるいは文化を繋げようとしている。扉の先には,地衣類が紡ぎだす様々な世界が広がっている,さあ,異国への旅が始まる」という一文に凝縮されているようだ。

 異なる世界あるいは文化を繋げるという意味で,古今東西の文学作品からの引用が多い。第一部第二部でそもそも地衣類とは,という視点からその文化的表象を紡ぎ,様々な国の現代詩人と美術家の仕事を紹介する第三部がめっぽう面白い。そして,第四部では科学的な地衣類像から現代社会における「協働」や「共生」の概念へと展開される。

 地衣類・文芸(特に詩)・美術に興味があってこの本を手に取った私のような読者は,第四部はそこまでとはちょっと異質な内容に感じられてしまうが,この「共生」の概念こそ,この分厚い本のメッセージらしい。時間をかけて読み終えて,軽く肩透かしをくらったような,やや徒労感の残る読書体験だった。

 第二部「記載し,命名し,表象する」における日本のワビサビと苔や地衣類をめぐる考察はとても面白く読んだ。「生育が緩慢な地衣類だからこそ,自然の中に流れる時間を告げ,その時間を計る尺度となって,自然の永遠性についても,その不安定さについても,時間の跡として物に残された古色や錆についても,あるがままに伝えることができるのだ。」(p.115)

2026-07-06

2026年7月,風蘭の開花


 風蘭の春及殿が開花しました。2年前に株分けをした子株の方。腰を痛めてからなかなか植物の世話に手が回らない中,かわいい花をつけてくれてとっても嬉しい。

 

2026-06-19

2026年6月,東京東銀座,「六月大歌舞伎 昼の部」

 歌舞伎座で昼の部を観劇。「祇園祭礼信仰記 金閣寺」は時蔵の雪姫。獅童の松永大膳が貫禄たっぷり。華やかな「戻駕色相肩」に続いてはなんと「子連れ狼」! またまた獅童が大奮闘。大音量の主題歌だったり,時代劇そのもののチャンバラだったり,まるでテレビの時代劇を劇場で生放送(?)で見てるみたい。めちゃくちゃ面白かった。次男の夏幹くんが大五郎。「金閣寺」がまさに歌舞伎の定番という演目なので,二度おいしい,という感じの昼の部を堪能。

2026年6月,東京松涛,「中央アジアの手仕事:華麗なる刺繍とジュエリー」・「中央アジアを紡ぐ旋律」コンサート

 松涛美術館では「中央アジアの手仕事:華麗なる刺繍とジュエリー」展を見る。随分と前に「シルクロードの装い」展という展覧会を見たことがあって,書棚の中で手に取りやすい場所に図録を置いてある。図録を見たら2004年の開催(東京都庭園美術館)で,おお,懐かしいという思いと,20年以上も経っているのかという愕然とした思いと。

 展覧会場は,一瞬どこかの学校の団体が来場しているのかと錯覚してしまうほど若い人たちで溢れている。えっ,と思いつつ,人気があるのが嬉しいし,なんとなく誇らしい気持ち?になってくる。そうよね,素敵よね,と話しかけたくなってくる迷惑な年寄りぶりなのである。漫画の「乙姫語り」の影響もあるのかも。


 運よく,関連イベントの「中央アジアを紡ぐ旋律 シルクロードの伝統楽器ドゥタール」コンサートに当選して,地下ホールで1時間近くの演奏を楽しむ。ドゥタールは「二弦」という意味の弦楽器。二胡みたいでもあるしシタールみたいでもある。演奏の駒崎万集さんはウズベキスタンの伝統音楽芸術大学修士課程に在籍中のエネルギッシュでチャーミングな女性。魔法にかかったように時間があっという間に過ぎていく。 

2026年5月・6月,東京上野毛ほか,「館蔵 陶芸展」・「美を味わう 懐石のうつわと茶の湯」

 展覧会の記録がたまってしまって,まずは5月に五島美術館で「館蔵 陶芸展」を見る。毎年,中国陶磁の展覧会が開催される時期に今年は朝鮮・日本の陶芸も併せての展示。ちょうどギャラリートークに参加できた。テーマは中国陶磁に絞ったトークで,学芸員氏の中国陶磁愛の熱量が半端ない。収蔵に至る来歴の話が面白く,楽しい時間を過ごす。でも私の一番は朝鮮白磁だったかな。井戸茶碗も。

 静嘉堂@丸の内では「美を味わう 懐石のうつわと茶の湯」展を見る(6月14日で終了)。器の展覧会が続くな,とそれほど期待せずに出かけたら大興奮の内容。懐石のうつわなので,陶磁器,漆器,ガラス,それに茶杓や盆などの木製品などなどバラエティ豊かな作品が次々と現れて楽しいことこの上ない。

 陶磁器は日本,中国と朝鮮だけでなくベトナムやオランダのものも。日本向けに焼かれた釜山窯は,これまで朝鮮陶磁器を見てきた中でも新鮮な驚き。釜山には是非行ってみたい。陶磁器を見るという目的ができた。

 デルフトの向付や,黎朝期のベトナムの器たちに心奪われる。安南染付の雲龍文字文獣足平鉢は,これも見たことがない形状に目が釘付けになる。いろいろ見てきたつもりだったけど,未知の世界が広がってることがとにかく嬉しい。ベトナムにもまた行きたいなあ。ハノイの骨董街で宝探しができたらどんなに楽しいだろう。



2026-06-12

読んだ本,「Ifの総て」(島田雅彦)

 
 「Ifの総て」(島田雅彦 新潮社2026)読了。2024年からの「新潮」の連載が単行本化されたもの。雅彦ファンとしては速攻(?)で購入して読まなくてはならぬ,と思ったもののなかなか読み進めることができず,途中に何冊か寄り道もしてようやく読み終えた。

 帯の惹句には「文学と政治の交差点を大冒険するエンターテイメント衝撃作!」とある。主人公の花村薫は生成AI「カオス・ジェネレーター」を使って歴史上のIFの世界=「ありえたかもしれない世界」であるメタ現実に入っていく。

 前作の「大転生時代」もしかり,どこか「私にはついていけない」という通奏低音が常につきまとい,長い長い島田読書遍歴の一つのピースを読み終えたのだ,という半ば強制的な達成感を味わっている。

 もちろん,物語の後半にかけて一気呵成に読み進める面白さがあるし,結末には希望もある。部分的にささる文章もあちこちにある。そう,私には「優しいサヨクのための嬉遊曲」を手にしていなかったらというIFがあり得ないのと同じくらい,これから生み出される作品を読まない未来というのも想像できないな,と何だかよくわからないけれども,これが愛読者の宿命?

 「あり得たかもしれない別の現実に希望を見出すつもりが,絶望しかなかった。正直,歴史にはほとほと愛想が尽きた。いや歴史にとことん嫌われたというべきか。結局,過去を変えようとするあらゆる行動は裏切られることになっているみたいだ。それはつまり,過去の出来事の帰結が現在であり,未来であるという考え自体が間違っているということではないか。」(p.229)

 「確かに過去にも未来にも絶望しかなかった。希望は現在にしかないということかなと思った。」(p.286)

2026-05-31

2026年5月,神奈川川崎,東京交響楽団・川崎定期演奏会

撮影可のカーテンコールで。
 東京交響楽団の定期会員に申し込んで,ミューザ川崎に定期演奏会を聴きに行く。今年は年間5回,楽しめるのがうれしい。ソロ客演の顔ぶれが豪華で(8月は角野隼斗,10月はガルシア・ガルシアのピアノ,12月は宮田大のチェロ),個別にチケットを取るのに神経を使わなくてすむ。それだけでもラッキーというもの。

 初回のこの日は翌日の音楽監督ロレンツォ・ヴィオッテイの就任披露特別演奏会と同じプログラムでR.シュトラウス「4つの最後の歌」とラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」という構成。

 歌曲はマリーナ・レベカのソプラノが圧巻。プログラムの歌詞対訳(広瀬大介訳)がとても助かる。4曲のうち3曲がヘルマン・ヘッセ,1曲がアイヒェンドルフの歌詞による。シュトラウスの音楽での「遺書」というこの歌曲,『春』の「夜明け前の墓の中で/長いこと夢見たのは/あなたの樹々と青い空」で始まり,『夕映えの中で』の「さすらいにも飽き果てた/これが死というものか」で終わる。美しい響きにうっとりするけれど,音楽とは芸術とは,生と死すなわち生命の体験なのだと改めて気付かされる。

 そして休憩後のラヴェル「ダフニスとクロエ」はディアギレフの依頼を受けて作曲された音楽。合唱付きの演奏だが,この合唱には歌詞がない。楽器の一つという扱いなのだろうか,前半の歌曲に続いて,人の身体から発せられる深い響きに震える。最終幕の〈全員の踊り〉のオーケストラの熱狂。

 プログラムの「初演」の項目に「1912年6月8日パリ(シャトレ劇場),ピエール・モントゥー指揮,美術・衣装はレオン・バクスト,振付はミハイル・フォーキン,配役はヴァスラフ・ニジンスキー(ダフニス),タマラ・カルサヴィナ(クロエ)」とあるのを見て,思わずバレエ・リュスの公演を目のあたりにしているような錯覚を覚える。まるで映画を見るように。

 帰宅して三浦雅士「バレエの現代」(文芸春秋),「バレエ入門」(新書館)を開く。バレエの舞台を見たわけではないけれど,「ある意味では,踊ることは演奏することであり,演奏することは踊ることなのだ」(「バレエの現代」p.40)という一節などを深く実感した一日だった。