2026-08-20

読んだ本,「タタール人の砂漠」・「神を見た犬」(ブッツァーティ)

 「タタール人の砂漠」(ブッツァーティ著 脇功訳 松籟社 1992)をイタリア叢書9で読む。原作の出版は1940年,1976年には映画化もされた小説で,近年若い人たちに話題なのだという。幻想小説やマジックリアリズムの古典とか標榜されているので読んでみたが,「幻想」は主人公にとってのタタール人の砂漠であって,小説自体は人生とは,時間とはという大命題を描くものと私は読んだ。

 ドローゴは配属された辺境の砦から出られなくなる。見えざる敵であるタタール人の襲撃をいつしか待ちわびて老年を迎えた彼に襲い掛かるのは「時間」という敵。青年期と老年期における時間の流れる速度の違いが鮮やかに描かれる。

 ドローゴが「死」の想念を自覚したときの描写。「時の遁走が,まるで魔法が敗れたみたいに,止まったかに思えた。時の渦巻く流れが最近ではますます激しさを増していたのが,不意にぴたりと止まり,世界はすっかり力なく澱んで,時計だけが空しく動いていた。ドローゴの道は終わり,彼は一様に灰色をした海を前にした淋しい岸辺にたどりついたのだった,そしてまわりには家もなければ,木も,人影もなく,すべてがはるか太古からのままだった。」(pp.248-249)

  「時の遁走」が止まる。そうか,人はこうして死を迎えるのか。あっという間に読み終えて,ブッツァーティの他の作品も読みたくなって短編集「神を見た犬」(関口英子訳 光文社古典新訳文庫 2017)も読む。22の短編が収められる。表題作が断然面白い。村人たちが怖れた犬は本当に神の使いなのか,何かを信じて生きるということの意味を改めて考えさせられる。他にコロンブレという名の魚に一生を振り回される漁師ステファノの人生を描く「コロンブレ」,爽やかな読後感にほっとする「聖人たち」など。


 

2026-08-18

2026年8月,東京渋谷・恵比寿,「まなざしの奇跡」・「TOPコレクション明日の食卓」

【忘備録】渋谷ヒカリエホールで「まなざしの奇跡 日本女性写真家の冒険」展を見る。総勢30名の女性写真家の展覧会。欧州で14万人を動員した大規模世界巡回展とのこと。「日本人の女性の写真家」を紹介する展覧会を日本で見ることにどんな意味があるのか?と思いつつ,知らない作家もいて,たくさんいろんな写真を見たな,というのが見終えた感想。「女性」だからの視点をことさら強調するわけではない展覧会だったと思う。広い会場で好きか嫌いかだけのフィルターを通して見て,強く印象に残ったのは杉浦邦恵と蜷川実花のモノクロ。

 東京都写真美術館では「TOPコレクション明日の食卓」展を見る。「食」を手がかりとしたコレクション展は14名の写真家で構成されている。もちろん「女性写真家」も。川内倫子のスライド作品が面白い。祖父の葬儀の場での親戚の集い。「生きる」ための「食」が「死」と結びつく。第1室では島尾伸三と潮田登久子の作品が対面に並ぶ。第2室の奈良原一高の〈ポケット東京〉シリーズは新鮮な驚き。禅僧や修道士や闘牛ばかりが奈良原一高ではないのね,という。

2026年8月,東京京橋,「瀧口修造 書くことと描くこと」・「エットレ・ソットタス」

【忘備録】7月某日アーティゾン美術館で「瀧口修造 書くことと描くこと」展を見る。5階展示室で「書く」行為を,4階展示室で「描く」行為を見る。4階「私の心臓は時を刻む」。5階のアンリ・ミショー。若い頃,ブリジストン美術館の土曜講座によく出かけた。この日は朝吹亮二氏の「瀧口修造と書く/描く/こと」と題する講演を聞く。

 「詩を書く」という行為の実在性,「言葉の実在性」について。「詩と実在」(1931)からの部分引用にはっとする。「詩は信仰ではない。論理ではない。詩は行為である。行為は行為を拒絶する。夢の影が詩の影に似たのはこの瞬間であった。」そしてここから「描く」という行為へ向かう。漫然と読んでいた何冊かの本をじっくり読み返さなければならない。

 同時開催の「エットレ・ソットタス 魔法がはじまるときデザインは生まれる」展も見る。石橋財団がたくさん所有しているらしい。美しいイタリアデザインの数々。やはり時代を感じてしまう。私にとってオリベッティのタイプライターはデザイン云々ではなく,学生生活がまざまざと甦るまさに魔法の装置なのであった。私のレッテラ10のはるか(!)上位機種レッテラDLには思わす,おおお,これ欲しかったやつ。となる。

2026-07-21

古いもの,フェルメールで買った額絵・高橋麻帆書店で買った本

 久しぶりに金沢へ。アンティークフェルメールでこんな素敵な額絵を手に入れました。1830~40年代のものとのこと。可憐な花は色艶やかな水彩です。とにかくフレームの雰囲気や佇まいが素敵。日がな眺めてはニヤニヤしてしまいます。

 香林坊のうつのみや書店の古書市へでかけたものの収穫なく,同じビルの催事場で開催中のヴィンテージマーケットで高橋麻帆書店の棚を見つけました。実店舗は予約制らしいので,気軽に楽しめてうれしい。こんな1冊を購入。「ドイツの世紀末叢書第二巻 プラハ/ヤヌスの相貌」(国書刊行会 1986)。近いうちに紐解こう。お店のフライヤーの『アイヒシュテット庭園植物誌』の亜麻の図譜もとても素敵です。

2026-07-19

2026年6月・7月,神奈川川崎ほか,映画・舞台の記録

 パフォーミング・アートの忘備録として。川崎市アートセンター映像館で映画「ボタニスト 植物を愛する少年」を見る。予告編を見たときは,朝ドラの「らんまん」みたいな話かと思いきや,現実と幻想が溶け合う不思議な世界を生きる植物を愛する少年の日々が描かれた素敵な映画。カザフ族の少年アルシンと,漢族の少女メイユーとの淡い感情の交感の描写が美しい。言葉を話す馬。失踪した叔父。その叔父の帰りを待つ妻。そして強い印象を残すのが冒頭と最後に画面にクローズアップされる老人。彼は誰なのだろう。もしや彼は,と想像を巡らす時間も楽しい。

 静岡に遠征して森山未來のダンスを見る。会場のグランシップは軽やかだけど威厳もあって,感動的に美しい建物。外観の写真を撮り忘れた,というか,あまりの悪天候に駅から駆け込んだので。。というのもW台風が接近中なのに新幹線で西へ向かうという無茶をしてまで見たかった「STILL LIFE」。気付いたときは横浜公演は完売だった。

 作品の主題は「人間と自然との断絶」。新聞に掲載された森山未來のインタビュー記事で彼は「この作品は『我々はこの世界でどうさまよっていて,どう立てばいいのか』を問うているんじゃないかな」と語っている。なるほど,という感じだけど,実際に舞台上の生身の姿を観客席から見ていると,ダンサーと観客の間で「人間と人間が身体を通して分かり合える」(「バレエ入門」(三浦雅士著 p.35))ことを実感する。「想い」が伝わってくるのだ,その身体から。
 1年ぶりの金沢では石川県立能楽堂の観能の夕べにでかける。番組は狂言「咲嘩」と能「枕慈童」。ここ能舞台でも観客はシテの童子の身体を通して,彼岸と此岸を行き来する体験をする。金沢で見る加賀宝生の演能は,いつ見ても感動する。「場の力」もあるのだろうな。 

2026-07-15

2026年6月・7月,東京六本木ほか,展覧会の記録

 時間が経ってしまったけれども,展覧会の記録を忘備録として(会期終了しているものもあります)。六本木の泉屋博古館東京で「ライトアップ 木島櫻谷 Ⅲ」展を見る。時代に応じて色彩の発色の仕方や絵具の質や扱い方の変化を探るという明確なテーマの展覧会なので,見ているこちらも,盛り上がった胡粉やさわやかな緑青の発色などに自然と反応してくる。同時開催の「文化財よ,永遠に 2026」では文化財修復の気の遠くなるような技術に感動。


 泉屋博古館から少し歩いて大倉集古館では「中国 宋・元・明時代の漆器 和の漆器や香道具とともに」を見る。宋代の犀皮香合や長箱など,大好きなので嬉しい。クリクリの屈輪文も楽しいのだけれど,出品リストには屈輪文の記載がなく,文様の名称は省略するのかなと思うも「花文」とか「吉祥文」とかは記されてる。ちょっと不思議。中国漆器は大倉集古館と東博の所蔵品3点のほかはすべて個人蔵なので個々の名称は所蔵者の意向なんだろうか? 大倉集古館所蔵の螺鈿の長箱(元)は写真撮影可だった。息を呑む美しさ。1階では日本の漆器と香道具の展示。香木「蘭奢待」は箱や極書の立派なことに驚く。そりゃそうか,と一人納得。 

 東大駒場キャンパスの駒場博物館では「展覧会カタログの愉しみ」展を見る。資料室の開室20周年特別展とのこと。学術的な興味を深めるためには今橋映子教授の同タイトルの著書や発表された論考などを読みなさい,ということなのだろうと思う。展示されているのは蔵書2万冊のうちの1100冊で,選書やセットリストはオーソドックスな感じ。もともと興味を持って展覧会に出かけて,深く知りたいと思ったときは図録を購入しているので(私の書棚の2割くらいは展覧会図録だし),展覧会としてワクワクしたか,というと微妙な感じ。
 
 その足で駒場コミュニケーションプラザの音楽実習室で「東京大学教養学部選抜学生コンサート」という室内楽のコンサートを聴く。二物を与えられた若者たちの爽やかな佇まい。那須春樹氏の武満徹「雨の樹素描Ⅱ」。

 駒場に来たら日本民藝館へも足を延ばす。こちらは創設90周年記念展「柳宗悦と日本民藝館」展。開館時の常設展の再現が興味深く,楽しく拝見。旧柳邸の西館は開館日が限られているので,初めて訪問できた。素敵である。こんなおうちに住みたいなあ,としみじみ思う。
 最後にあと一つ,上野の森美術館で「大ゴッホ展」を見る。「夜のカフェ」が目玉で,平日昼間というのに大混雑。「夜のカフェ」は撮影可だったけれど,記念撮影とかしてる人もたくさんいて,ちょっと萎える。こういう花の絵は撮影可でも人気がない。 

2026-07-08

読んだ本,「地衣類,ミニマルな抵抗」(ヴァンサン・ゾンカ)


 「地衣類,ミニマルな抵抗」(ヴァンサン・ゾンカ著 宮林寛訳 みすず書房,2023)読了。不思議な書物だ。どんな風に不思議なのか,植物分類学の博士である大村嘉人氏のまえがきから引用させてもらうと,「本書は,地衣類を通じて,時や空間を超えて異なる世界あるいは文化を繋げようとしている。扉の先には,地衣類が紡ぎだす様々な世界が広がっている,さあ,異国への旅が始まる」という一文に凝縮されているようだ。

 異なる世界あるいは文化を繋げるという意味で,古今東西の文学作品からの引用が多い。第一部第二部でそもそも地衣類とは,という視点からその文化的表象を紡ぎ,様々な国の現代詩人と美術家の仕事を紹介する第三部がめっぽう面白い。そして,第四部では科学的な地衣類像から現代社会における「協働」や「共生」の概念へと展開される。

 地衣類・文芸(特に詩)・美術に興味があってこの本を手に取った私のような読者は,第四部はそこまでとはちょっと異質な内容に感じられてしまうが,この「共生」の概念こそ,この分厚い本のメッセージらしい。時間をかけて読み終えて,軽く肩透かしをくらったような,やや徒労感の残る読書体験だった。

 第二部「記載し,命名し,表象する」における日本のワビサビと苔や地衣類をめぐる考察はとても面白く読んだ。「生育が緩慢な地衣類だからこそ,自然の中に流れる時間を告げ,その時間を計る尺度となって,自然の永遠性についても,その不安定さについても,時間の跡として物に残された古色や錆についても,あるがままに伝えることができるのだ。」(p.115)