2026-04-21

2026年4月,植物に癒される,君子蘭の開花・「ポール・ヴァーゼンの植物標本」(ポール・ヴァーゼン 堀江俊幸)


  今年も開花した君子蘭。この冬が寒かったせいか,いつもより元気がない。当たり前のように毎年の開花を楽しみにしているけれど,寿命というのもあるのだろうか。

 古書博覧会で買った1冊「ポール・ヴァーゼンの植物標本」(ポール・ヴァーゼン 堀江俊幸,リトルモア 2022)をまず読み終える。というか,堀江俊幸の文は読み終えて,美しい標本は繰り返し繰り返し眺めている。表紙をめくって最初の1枚がエーデルワイスで,とても嬉しい。堀江俊幸の掌編はルソー「孤独な散歩者の夢想」についての言及が興味深い。

 この植物標本は湯島の古道具店アトラスの店主が南フランスの蚤の市で見つけたものだという。出版時には話題になっていたし,展覧会も開催されたらしい。湯島の店舗に行ってみたいなあと思う。ここのところ,体調がすぐれず鬱々と過ごしていたが,古書市にでかけていろいろ希望!が沸いてきた。

2026年4月,東京神保町,全ニッポン古本博覧会


  今年の神保町の春の古本市は,全国約130の古書店が参加するその名も「全ニッポン古本博覧会」! 日程をチェックしてなくて,友人からの一報に慌てて出陣する。遅参は許すまじ(誰が?)。

 実に実に楽しい古本市だった。まずは古書会館のB1階と4階で稀覯本や美術品をゆっくり眺めてから3階,小川町広場,靖国通り沿いの回廊へと向かうつもりが,最後は時間切れ。主に古書会館3階で買い集めたのがこんな感じ。三鷹のりんてん舎の棚から選んだものがほとんど。実は昨年,武蔵野大学能楽資料センターの講演を聴きに行ったときに,バスの中からこの古書店を見かけて,途中下車するかちょっと迷ったのだった。今度はゆっくりと古書店を訪ねる一日を作ろう。

 希少な写真集は全般的に値段が上がっているみたい。関西の古書店のブースで鈴木清「流れの歌」(署名入り)を見つけて思わず手に取って見せてもらったけど,私には手が出ない金額。中平卓馬「来るべき言葉のために」もすばらしいコンディションの1冊を出陳している古書店があったけれど,手も足も出ないお値段。

最近の読書,コルタサル「遊戯の終わり」・建畠晢の長編詩


 国書刊行会のラテンアメリカ文学叢書の佇まいが好きで,古書店で見つけると購入している。コルタサルの「遊戯の終わり」は文庫で既読のつもりでいたのだが,書棚には見当たらないし,過去の読書記録にも見当たらない。未読だったか,と焦るような,未知のコルタサルを読めるわけだと喜ぶような,おかしな心理状態で読み進める。

 そしてこれはまさに読書の喜びだという実感にひたる。「続いている公園」や「夜,あおむけにされて」など,選集に選ばれて既読の短編もいくつかあるが,この「遊戯の終わり」は短編集として編まれたものなので,1冊を通してコルタサルの幻想世界をたっぷりと堪能。

 どの一つとして期待を裏切られない。とりわけ深く心に残ったのが「山椒魚」という一遍で,山椒魚に取り憑かれて毎日植物園に通う「ぼく」はやがて意識だけがそっくり山椒魚に乗り移ってしまう。

 その変身を,毒虫に変身したザムザと比較する訳者の木村栄一による論考がとても興味深く,読後の大きな刺激を味わった。ザムザが変身後もこの世界内に閉じ込められているのに対して,「ぼく」はすでにこの世界を抜け出して「水槽の中」の世界に身を置いている。つまり,この短編は非現実の世界の住人となった「山椒魚=ぼく」からの「別世界通信」(「コルタサル論」p.205)というわけ。

 これぞラテンアメリカ文学を読む愉しさだし,カフカと比較すると同時に思わず井伏鱒二の「山椒魚」を思い出したし,濃密な読書の時間を過ごした。「秘密の武器」(国書刊行会 世界幻想文学大系)も既読の短編がほとんどだが,短編集として通して読み進めているところ。

 ここのところ,読書の記録をちゃんと残していなかった。現代詩手帖の2月号の特集「イラン現代詩を読む」は私にはハードルが高かった。ちゃんとペルシャ文学の流れを勉強してからでないと。現代詩手帖1月号「現代日本詩集2026」は建畠晢氏の新作長編詩を読みたくて手に取る。「態度が形になるとき」というその一編は同名の古書店主とのやりとりが面白く,詩人の頭の中をのぞいてみたくなる。

2026-03-31

2026年3月,東京目白ほか,展覧会の記録

  この3月はたくさんでかけて,頭の中がスクランブル交差点状態。まずは静嘉堂@丸の内で「たたかう仏像」展を見る。怒髪天を憑く三彩神将俑とか大迫力。高麗時代の預修十王生七経は海印寺に現存する版木を用いたもの,という解説に思わず韓国旅行を思い出して胸が高鳴る。この春,また韓国に行きたいんだ。

 目白の永青文庫では所蔵の東洋彫刻コレクション「アジアの仏たち」展を見る。数としては中国の石仏や金銅仏が多いけれど,インドの彫像の面白さに興奮。4階展示室で端正なヒンドゥー教神像や仏像をたっぷり楽しむ。パーラ時代(8~10世紀)の「弥勒菩薩坐像」の美しさ。2階展示室には小ぶりなチベットの金銅仏もあり,アジアの風を感じた午後。まだ桜には早い時期だった。白木蓮の花が美しい。

 後日,ふたたび目白にでかけて桜開花の学習院大学キャンパスを楽しみながら学習院ミュージアムで開催中の「Re:辻邦生ーいま,ふたたび作家に出会う」展(Part 1)を見る。パリ留学時代の日記や写真など,若き日の作家の文学への情熱にあらためて感動。読み返したくなる作品が多すぎて困る。夢中になった若き日の自分と向き合うことになるのか,いつしか離れてしまった理由を思い出すのか,年を重ねていろんなことを考える。Part 2の展示や「ことばと響きあう〈美〉と〈音〉」というタイトルの講座にも参加したい。
 上野の荘村清志のコンサートの前に東博で「韓国美術の玉手箱-国立中央博物館の所蔵品をむかえて」を見る。本館特別1室と2室を使った見ごたえたっぷりの特別企画。あの広大な国立中央博物館の展示室の一つ一つを思い出してドキドキしてくる。名品ばかりで,さっと見るつもりがほとんど凝視(?)する勢いで時間をかけて鑑賞。高麗青磁の美しさ。観音菩薩坐像の優雅さ。朝鮮国王国書の楷書と塗印にもうっとりする。その紙の艶と言ったら! 東洋館では書道博物館との連携企画「明末清初の書画」展もぎりぎりで見ることができた。
 3月はほかに,東洋文庫でリニューアル・オープン記念の「ニッポン再発見-異邦人のまなざし」展を。朝ドラを楽しく見ていたので「ラフカディオ・ハーン書簡集」などにドキドキ。この展覧会とは直接は関係ないけれど,神保町で京都大学人文科学研究所の漢籍セミナーで「外国人の見た近代中国 異境の探索者たち」という講演会に参加した。時間の都合で「イザベラ・バードの見た清末の長江ー三峡・チベット・アヘン」(村上衛教授)のみ聴講。イザベラ・バードの名前を初めて知ったのは東洋文庫なので,ちょうどのタイミング。イザベラ・バードという人物を知り,「制度」を考える意味について学ぶ貴重な機会だった。会場は満席。

 そして桜満開の週末,砧公園にでかけて世田谷美術館開館40周年記念のコレクション展「世田美のあしあと」を見る。コレクションのダイジェスト版という感じで懐かしい作品ばかり。用賀駅に万博出品作というジュリアン・オピーの作品が展示してあって,いい感じ。

2026-03-26

2026年3月,上野・狛江・渋谷,荘村清志のギター・川口成彦のフォルテピアノ・映画「ジョン・クランコ」

 箍が外れたままの3月後半,あちこちに出かけたのとPCが不調で買い替えたりしていて記録が溜まりに溜まってしまった。気が付くともう桜の便りに街が浮き立つ頃に。

 東京・春・音楽祭2026のプログラムで東京文化会館小ホールに荘村清志のギターを聴きに行く。「武満徹 没後30年に寄せて」というタイトルのコンサートはオール武満徹プログラム。前半は「フォリオス」「ギターのための12の歌」より5曲,「すべては薄明のなかでーギターのための4つの小品」,後半は「エキノクス」「ギターのための12の歌」より4曲,「森のなかでーギターのための3つの小品」。なんとも贅沢なギター1本の2時間だった。荘村清志の武満徹への敬慕の想いが溢れる美しい演奏に思わず涙ぐみそうになる。

 狛江の駅からすぐの狛江エコルマホールに川口成彦のフォルテピアノによる「開館30周年企画 ベートーヴェンをたたえてⅧ 大公/皇帝」を聴きに行く。ピアノソロ「エリーゼのために」,ピアノ三重奏曲「大公」,ピアノソロ「幻想曲ト短調」,最後のピアノ協奏曲「皇帝」は古楽器の弦楽アンサンブルとの共演。
  
 「皇帝」ってこんなに美しい曲だったのか,という驚き。使用ピアノの1825年ウィーン製ヨハン・クレーマーは機嫌が悪かった(?)らしい。べダルのトラブルのハプニングは,1回限りのライブでしか味わえない楽しみということにして,また別の楽器・プログラムで彼の演奏を聴いてみたい。 
 文化村ル・シネマに「ジョン・クランコ バレエの革命児」を見に行く。「その美しさに、世界がひれ伏す」とある通り,シュツットガルト・バレエ団のバレエシーンも彼の見る幻想も,そして彼自身もあまりに美しい。舞踊関係を楽しんだあとはいつもの(?)「バレエの現代」(三浦雅士著 文芸春秋)を紐解く。こんな記述になるほど!と興奮する。

 「物語を捨てて純粋な動きの美しさそのものを求めたバランシンの抽象主義が,カニングハムのモダンダンスに流れ,あくまでも意味に固執し,物語を失うまいとするグレアムの表現主義が,ヨーロッパのモダンバレエに影響を与えたというのは皮肉だが,クランコは両者の総合を企てていたということになる。」(p.171)

2026-03-18

読んだ本,「死んでから俺にはいろんなことがあった」(リカルド・アドルフォ)

「死んでから俺にはいろんなことがあった」(リカルド・アドルフォ 木下眞穂訳 書肆侃侃房 2024)読了。スペイン語圏文学の棚に並んでいて,ジャケ買いならぬタイトル買いで手にした1冊。1人称の「俺」が饒舌に語る時間と空間は不条理に満ちている。

 「俺」は妻と幼い息子と一緒にただ家に帰りたいだけなのだ。言葉がまったくわからない異国の都会で夜中に道に迷ってしまったばかりに,恐怖の時間を過ごすことになる。

 読み進めるうち,「俺」は「くに」で罪を犯して妻と息子と「島」に不法入国した移民であることがわかる。タイトルの「死んでから」は肉体の死ではなく,社会的な「死」を意味していることがこんな一節から読み取れる。

 「俺はここの人間じゃないんだ。俺は存在していない。だが,死人のまま生きるのに慣れることなんでできやしない。」(p.29)

 2023年に翻訳された本作は2009年に発表されたという。日本でも移民問題の認知が進んで,この喜劇仕立ての小説が孕む貧困,移民,差別,家父長制などの問題が私たち日本人が身近に感じて読めるようになったということなのだろう。

 たしかに,ポリティカルに読んで考えるべき問題が詰め込まれてはいる。しかし,この「物語」が語るのは,「俺」は家に帰れるのかという一点だ。私は最後まで,「俺」は本当に生きているのか,妻と息子と同じ水平に存在しているのか,地下鉄を降りてバス停を探し,最後は飛行機に乗せられて結局行きつく場所は天国かそれとも地獄なのではないかと,ずっとハラハラしながら読み進めた。リカルド・アドルフォの語る「物語」は頗る面白かった。 

2026-03-14

2026年3月,東京・横浜,国立能楽堂定例公演・石田泰尚&石井琢磨リサイタル・ルパン歌舞伎

 寒さも緩み体調もよくなって,箍が外れたようにあちこち出かけているのでその記録を。まずは国立能楽堂で狂言「左近三郎」と能「須磨源氏」の番組で定例公演を拝見。行きたいと思ったときにはたいていチケットが完売してしまっているので,今回も譲ってもらったら,なんと正面席一列目。脇正面で見ることが多いので,こんな風に見えるんだ!という驚き。春の月明りのもと,光源氏がまさに目の前に現れて優雅に舞っているよう。能面とばっちり目が合って,雄弁に語りかけてくるような感覚は初めての,至福のひととき。資料展示室では「能面展」を見る。
 気持ちよい気候の一日,みなとみらいホールで石田泰尚&石井琢磨リサイタルを聴く。前半はモーツァルトとグリーグのヴァイオリン・ソナタ,後半はピアソラというプログラム。石井琢磨は寡聞にして知らなかったのだけど,今大変な人気のピアニストだそう。本プログラムは彼が希望したのだとか。前半も後半も二人の個性が響き合ってとてもよかった。アンコールのピアノ独奏「献呈」(シューマン)も美しく,若き才能に拍手喝采。アンコール最後のリベルタンゴがこの日のすべてを持っていったかも。

 そして新橋歌劇場でルパン歌舞伎「碧翠の麗城」を楽しく観劇。昨年の南座で見た第一作に続く二作目。前作では右近が演じた石川五右衛門を今作は片岡愛之助がルパンと二役を演じる。どうなのかな,と思っていたら,ルパンと五右衛門の早替わりが見せ場になってて面白い! そして今作はなんといっても中村米吉の瀬織姫が可愛く美しく,お見事というしかない舞台だった。理屈抜きに面白かった!