2026-05-12

読んだ本,「無意味の祝祭」(ミラン・クンデラ)


  「無意味の祝祭」(ミラン・クンデラ 西永良成訳 河出書房新社 2015)読了。2023年に他界したクンデラが「無知」(2003)以来10年ぶりに2013年に発表した小説が2015年に邦訳されたもの。訳者解説は巻末ではなく,出版社のメルマガの形で読むことができる。クンデラが自身の小説には本文以外の要素をつけることを認めない方針だからという。これまでの単行本や文庫本にはいずれも解説やあとがきが付されているので,この小説に限ってということだろうか。

 その解説によれば,これはもともとフランスで15-6世紀に流行した世俗演劇である「阿呆劇」というジャンルなのだという。たしかに,小説らしいストーリー展開というより,上機嫌を求める登場人物たちの無責任で奔放な(しかし無意味ではない)雑談によって構成されるユーモア劇のよう。

 そして読者はクンデラの筆に導かれて一篇の小説を読み終えるわけだが,最後にこんな台詞に邂逅してがつんとやられる。そしてこれぞクンデラの小説を読む愉悦であると再確認するのだ。

  「ねえ,きみ,無意味とは人生の本質なんだよ。それはいたるところで,つねにわれわれにつきまとっている。残虐行為,血腥い戦闘,最悪の不幸といった,だれもそれを見たくないところにさえも無意味は存在する。これほど悲劇的な状況のなかでも無意味を認め,それをその名で呼ぶにはしばしば勇気を要する。しかし大切なのは,それを認めることだけではなく,それをつまり無意味を愛さなくてはならないということだよ。無意味を愛するすべを学ばなくてはならないということだよ。(略)無意味は叡智の鍵,上機嫌さの鍵なんだから。」(p.136)

2026-05-09

2026年4月・5月,東京上野毛ほか,展覧会,観劇,映画の記録

 4月からGWにかけての記録をまとめて。五島美術館では「名品を彩るアンティーク・テキスタイル」展を見る。「古裂」とは言わないことに新鮮味を感じた展覧会。美しいインド更紗に目を奪われる。またインドに行きたいなあ,が展示とは無関係だけど一番の感想。

 國學院大學博物館では「和の硯」展を見る。日本の硯約200点が惜しげもなくというか,ずら~と並ぶ圧巻の展示。美術館なら代表の逸品を数点,という展示の仕方もあるだろうけど,これだけの質量を以て迫力十分に迫ってくるのも,なんだか感動してしまう。文房四宝の参考展示としての現代の水滴も面白かった。

 4月の観劇・観能は歌舞伎座に右近と真秀の連獅子を幕見席で見る。国立能楽堂では定例公演「熊野」と狂言「鶯」を見る。月間特集が「下村観山と能」ということで,アフタートークもあり。近代美術館の下村観山展は前期の弱法師を見逃してしまって,後期は体調すぐれず結局,行けなかった。のちのち後悔しそうだ。 

 GWは人出を避けて外出は近場のみ。渋谷ル・シネマでアラン・ドロン「サムライ4Kレストア」を見る。クールな殺し屋のドロンがあまりにかっこよすぎ。ノックアウトされてふらふらになって渋谷区ふれあい植物センターへ移動。こじんまりした温室にびっくり。まあ,都心も都心だから仕方ないか,と思いつつおいしい地元トマトのピザをいただく。

2026年4月,東京上野,「百万石! 加賀前田家」・東博能「羽衣」

 GWに突入する日に東博へ向かう。上野駅公園口からとにかく人が多い(私もその一人なわけで)。時間がたっぷりあるセミリタイア生活なのになんでそんな日に,と思われそうだけど,「百万石! 加賀前田家」展とタイアップの宝生流の能公演「東博能」のチケットを取ったのがこの日だったわけ。公演数が多い割に,あっという間に完売の公演も多くてびっくり。仮設舞台の能一番だけで自由席5500円はお手頃なのか割高なのか,不謹慎にもそんなことを考えてしまう。

 早めに博物館に到着して,公演の前にじっくり「百万石! 加賀前田家」展を鑑賞。これが質量ともにすごい展示で,東博の本気!を見た感じ(失礼)。国宝や重文がずらずら並ぶ会場に興奮おさまらず。「加賀前田家歴代」「百万石の文化大名」「加賀前田家の武と茶の湯」「天下の書府」「侯爵前田家のコレクション」の5章立ての展示で,鑑賞にはエネルギーの配分(?)が必要かも。「天下の書府」と,茶道具や能装束をメインに据えて堪能する。

 かなり体力を使ったものの,東博能「羽衣」も天井が高く反響する会場での観能は新鮮で面白い。能面も宝生流に伝わる古い面とのことで雅な時間を過ごす。シテは野月聡師,ワキは福王和幸師。

 東博では他にも見ごたえのある特集展示がいくつも。「アイルランド チェスター・ビーティー・コレクション 絵巻と絵本のたからばこ」は狩野山雪「長恨歌絵巻」や「酒吞童子絵巻」などなどが素晴らしく美しい状態でダブリンから招来されている。伊藤若冲「乗興舟」は昨年,エド・イン・ブラック展でも見たけれど,この摺りの美しさには驚くばかり。


  東博本館ではほかに特集展示「キリシタン関係遺品の保存と研究」も興味深く拝見。キリシタンが聖母マリアなどの聖像として信仰したとみられるのは,ほとんど本来観音菩薩像として造られたものだった,とのこと。明~清時代の美しい観音菩薩立像の数々を息をつめるように,見る。

2026-04-24

2026年4月,東京恵比寿,TOPコレクション Don't think. Feel.・読んだ本,平野啓一郎の新作短編

  東京都写真美術館のコレクション展「Don't think.  Feel.」展を見る。「考えるな,感じろ。」は「燃えよドラゴン」の中でブルース・リーが発したセリフの一部。ブルース・リーを敬愛する著名人は多いので,誰かがこのセリフをそっくりに真似ていたのをテレビで見たことがあり,かなり強烈な印象として甦ってきた。武術も美術も「感じること」こそ神髄ということか。

 写真美術館は足繫く通ってきたので,コレクション展は見たことのある写真ばかりが淡々と並んでいるのかと思いきや,「感じること」をテーマに据えてとても見ごたえのある展示。「Don't think.  Feel.」「家族写真の歴史民俗学」「川内倫子〈Illuminance〉」「記憶の部屋」「イメージの奥にひそむもの」の5室から構成されている。

 写美のコレクションのビッグネームがこれでもかと並んでいるので,印象に残ったものを挙げていったらきりがない。第1室の中平卓馬はプリントではなく「来たるべき言葉のために」が出陳されている。

第4室の高梨豊は「東京人」から5点。

 第5室は安井仲治と中山岩太に感動。中山岩太は「上海から来た女」も見たかったなあ。とはいえ,こんな豪華なラインナップに贅沢は言うまい。思う存分「感じた」展覧会だった。お腹いっぱい。
 ところで,新潮5月号に掲載の平野啓一郎「決定的瞬間 The Decisive Moment」(130枚)を読了。タイトルのカルティエ=ブレッソンからもわかる通り,写真がモチーフで,主人公は「新メディア美術館」なる美術館の学芸員の女性。写真展を企画・準備している。もちろんその写真家は架空の人物だけど,物故写真家が実名で登場するし,その虚実の混交感が写真好きにはなんだかすっきりしない。ストーリーはこの時代に合っていて面白く読んだけれど,これは映像化は難しいんじゃないかな,とそんなことを思った。ストーリーとは離れて,The Decisive Momentに関する豆知識がためになりました。 


2026-04-21

2026年4月,植物に癒される,君子蘭の開花・「ポール・ヴァーゼンの植物標本」(ポール・ヴァーゼン 堀江敏幸)


  今年も開花した君子蘭。この冬が寒かったせいか,いつもより元気がない。当たり前のように毎年の開花を楽しみにしているけれど,寿命というのもあるのだろうか。

 古本博覧会で買った1冊「ポール・ヴァーゼンの植物標本」(ポール・ヴァーゼン 堀江敏幸,リトルモア 2022)をまず読み終える。というか,堀江敏幸の文は読み終えて,美しい標本は繰り返し繰り返し眺めている。表紙をめくって最初の1枚がエーデルワイスで,とても嬉しい。堀江敏幸の掌編はルソー「孤独な散歩者の夢想」についての言及が興味深い。

 この植物標本は湯島の古道具店アトラスの店主が南フランスの蚤の市で見つけたものだという。出版時には話題になっていたし,展覧会も開催されたらしい。湯島の店舗に行ってみたいなあと思う。ここのところ,体調がすぐれず鬱々と過ごしていたが,古書市にでかけていろいろ希望!が沸いてきた。

2026年4月,東京神保町,全ニッポン古本博覧会


  今年の神保町の春の古本市は,全国約130の古書店が参加するその名も「全ニッポン古本博覧会」! 日程をチェックしてなくて,友人からの一報に慌てて出陣する。遅参は許すまじ(誰が?)。

 実に実に楽しい古本市だった。まずは古書会館のB1階と4階で稀覯本や美術品をゆっくり眺めてから3階,小川町広場,靖国通り沿いの回廊へと向かうつもりが,最後は時間切れ。主に古書会館3階で買い集めたのがこんな感じ。三鷹のりんてん舎の棚から選んだものがほとんど。実は昨年,武蔵野大学能楽資料センターの講演を聴きに行ったときに,バスの中からこの古書店を見かけて,途中下車するかちょっと迷ったのだった。今度はゆっくりと古書店を訪ねる一日を作ろう。

 希少な写真集は全般的に値段が上がっているみたい。関西の古書店のブースで鈴木清「流れの歌」(署名入り)を見つけて思わず手に取って見せてもらったけど,私には手が出ない金額。中平卓馬「来るべき言葉のために」もすばらしいコンディションの1冊を出陳している古書店があったけれど,手も足も出ないお値段。

最近の読書,コルタサル「遊戯の終わり」・建畠晢の長編詩


 国書刊行会のラテンアメリカ文学叢書の佇まいが好きで,古書店で見つけると購入している。コルタサルの「遊戯の終わり」は文庫で既読のつもりでいたのだが,書棚には見当たらないし,過去の読書記録にも見当たらない。未読だったか,と焦るような,未知のコルタサルを読めるわけだと喜ぶような,おかしな心理状態で読み進める。

 そしてこれはまさに読書の喜びだという実感にひたる。「続いている公園」や「夜,あおむけにされて」など,選集に選ばれて既読の短編もいくつかあるが,この「遊戯の終わり」は短編集として編まれたものなので,1冊を通してコルタサルの幻想世界をたっぷりと堪能。

 どの一つとして期待を裏切られない。とりわけ深く心に残ったのが「山椒魚」という一編で,山椒魚に取り憑かれて毎日植物園に通う「ぼく」はやがて意識だけがそっくり山椒魚に乗り移ってしまう。

 その変身を,毒虫に変身したザムザと比較する訳者の木村栄一による論考がとても興味深く,読後の大きな刺激を味わった。ザムザが変身後もこの世界内に閉じ込められているのに対して,「ぼく」はすでにこの世界を抜け出して「水槽の中」の世界に身を置いている。つまり,この短編は非現実の世界の住人となった「山椒魚=ぼく」からの「別世界通信」(「コルタサル論」p.205)というわけ。

 これぞラテンアメリカ文学を読む愉しさだし,カフカと比較すると同時に思わず井伏鱒二の「山椒魚」を思い出したし,濃密な読書の時間を過ごした。「秘密の武器」(国書刊行会 世界幻想文学大系)も既読の短編がほとんどだが,短編集として通して読み進めているところ。

 ここのところ,読書の記録をちゃんと残していなかった。現代詩手帖の2月号の特集「イラン現代詩を読む」は私にはハードルが高かった。ちゃんとペルシャ文学の流れを勉強してからでないと。現代詩手帖1月号「現代日本詩集2026」は建畠晢氏の新作長編詩を読みたくて手に取る。「態度が形になるとき」というその一編は同名の古書店主とのやりとりが面白く,詩人の頭の中をのぞいてみたくなる。