アントニオ・タブッキを何冊か読み返して,これほどフェルナンド・ペソアが小説のモチーフとして作中に登場していることに驚く。10年以上も前の初読の際には,ペソアというつかみどころのない詩人に対する知識が不足していたからだろう。私という読者が人生の時計を進めるうえで得た知識や情報が,再びの読書をかつてよりexcitingなものにしているのだとしたら,未知の作家との遭遇を求めるのと同じくらい,かつて読書の愉悦を味わった作家を読み返してみたいという希求を感じてしまう。
さて,フェルナンド・ペソア。アントニオ・タブッキ「逆さまゲーム」(須賀敦子訳 白水Uブックス 1998)の巻頭にもいきなり登場する。「ぼく」が亡くなったマリア・ド・カルモを追想するシーンだ。ぼくとリスボンの町を歩きながら,マリアは「わたしたちは,ひとつの異名からもうひとつへの異名へと歩いちゃったのね」(p.14)という。そして「彼女は『海のオード』から,小さな汽船が水平線に姿をあらわし,カンポスが,胸のなかでくるくると羽根が舞うように感じる,という箇所を暗唱してみせた。」(同)
思わず,あっと声をあげそうになる。昨年(2015年)6月,bunkamuraシアターコクーンにでかけて『海の詩歌(オード)』の朗読劇を観てきたのだった。ディアゴ・インファンテというポルトガルの俳優が朗々と詠いあげる舞台が目の前に浮かぶ。「原作:フェルナンド・ペソーア(アルヴァロ・デ・カンポス)」と書かれた立派な冊子をいただいて帰った。
「逆さまゲーム」に戻る。「その詩(カンポスのLisbon revisited)にうたわれている人物は,幼年時代をすごした家の窓辺にいるけれど,もうむかしとおなじ人間でなく,窓もおなじでなくなっている。時間は,人も,ものも変えてしまうからだ。(略)彼女(マリア)はぼくの手をとって,言った。ねえ,わたしたち,いったいだれなのかしら。どこにいるのかしら。一生をまるで夢のように生きて。」(p.20)
「フェルナンド・ペソア 最後の三日間」(和田忠彦訳 青土社 1997)はタブッキがペソアの人生の最後の時間を再現した書物だが,それはまたペソアという人生が永遠であることを記録した書物といえるのかもしれない。ペソアは異名のひとり,ソアーレスに「あなたの『不安の書』,頑張ってください」(p.73)と嘯く。
ペソアが死んでも,異名は生き続けるということなのか。昨年の秋からずっとタブッキを読み返し,たどり着いた最後の1冊がフェルナンド・ペソアの「不穏の書 断章」(澤田直訳 平凡社ライブラリー 2013)。「私は実在しない都市の新興住宅地であり,けっして書かれたことのない書物の冗漫な注釈だ。私は誰でも,誰でもない。私は感じることも,考えることも愛することもできない。私は書かれるべき小説の登場人物であり,風に乗って漂い,かつて存在したこともなく,私を完成することができなかった者が見るさまざまな夢のなかで四散している」(p.102)
ペソアを読んでいるとどうしようもなく不安な感覚に襲われてしまい,この詩人を深追いするのはやめておこうと思う。タブッキに導かれたこの数か月の間,私自身もまた何度も誰かに問いかけたくなる衝動にかられた。「わたしはいったいだれなのかしら」と。タブッキは,ペソアは,こう答えてくれているのかもしれない。「わたしたちはすべて。そしてすべては無」と。