2016-09-18

読んだ本,「仰向けの言葉」(堀江敏幸)

 写真・美術に関する散文が集められた「著者初の芸術論集」。目次をたどって,サイ・トゥオンブリーの写真についての短い文章が収められているのに眼を惹かれた。
 堀江敏幸の,もともとエッセーとの境界が曖昧な小説作品の文体が,この書のあちらこちらでも散見される。読者はあくまでも堀江敏幸という「観る者」の語りに耳を傾ければよいのだ,という前提で頁を繰るのがよいだろう,と思う。端的に言ってしまえば,「僕はこう見る,僕でなければこうは見えない」というやや強烈な自意識が鼻につく場面にたびたび遭遇するのだ。
 
 とは言え,なるほどそう見るかという驚きや,是非見てみたいと思わせる未知の作家など,発見も多かった。思わず高田美の「パリの記憶」(京都書院)の古書を探して注文。届くのが待ち遠しい。(「記憶の山水画-高田美」(pp/104-115)
 
 そして「スターキングはもうつくられていませんと彼は言った―あとがきに代えて」はまさに堀江敏幸の本領発揮といった趣の文章で,これを書くために1冊の書をまとめたのではないか,とも思える。ボリス・ザボロフの絵画をめぐる岩手の林檎園主との美しい交流と,その哀しみに満ちた結末は,まさに一遍の小説のようだ。その哀しみは,「存在のもつ神秘性」に支えられ,「上昇する命の予感」(P.211)に昇華されて読者の胸にいつまでも残る。
 
 ほかに印象に残ったくだりをいくつか。ジョルジョ・モランディについて。「モランディの絵を見るたびに感じられるのは,他のだれによってでもなく,みずからの重みで崩れていく直前で身を持しているオブジェに投影された,透明な狂気に近いなにかである」(p.164)
 
  自身が25年前に撮影した写真について。「もっともらしい言葉を書き付けたとしても,それは二十五年後の「私」によるひとつの解釈にすぎず,二十五年前の「彼」の頭のなかから引き出したものではないのだ。なにかを語るための言葉は,つねに遅れてやってくる」(p.127)

2016-09-04

読んだ本,「ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語」(津島佑子)

 久しぶりに魂が震えるような読書。「ジャッカ・ドフニ」とは網走に実在した民族資料館の名前で,「大切なものを収める家」という意味なのだという。アイヌ同様の少数民族であるウィルタ人のゲンターヌ氏が20世紀後半に創設したその資料館は,今は閉鎖されているらしい。
 
 物語は,17世紀前半,アイヌ女性と日本男性の間に生まれた少女チカップ(アイヌ語で鳥と言う意味)が,キリシタンの少年ジュリアンとマカオへと渡り,自らのルーツ,女であること,そしてカトリックへの信仰と向き合い,常に強い意思を持って生きていく。その果てにはさらなる別離と流浪が待ち構えている,というのが主旋律となっている。
 
 そして,その物語の外縁に,津島佑子の分身である「あなた」の物語が配され,8歳で不慮の事故で死んだ息子との北海道旅行の記憶が語られる。二人で訪れたジャッカ・ドフニと,そこで出会ったゲンターヌとの思い出。
 
 読み手である私は,歴史の波の中を生き抜くチカに寄り添うのと同じくらい,息子を亡くした母親である「あなた」に共感し,その悲嘆をいつしか自分のもののように感じて,辛くてたまらなくなる。「あなた」も若き日の旅で見た光景を息子に見せたかったのよね,と思わず一人ごちる。
 
 亡くなった息子の物語と,チカの物語は重層的というより,ずっと一定の距離を保って語られているように思われる。それだけに,物語の最後,アイヌへ渡ったチカの子供たちのその後の人生が,現代の物語とどこかで交錯するのではないか,という想像の余韻が読者に手渡されているようだ。読み終えて,考えて,ここに記録を残そうとする私は,この小説から強靭な力を与えられた気がしている。
 
 チカの魂には,母のかすかな記憶が,アイヌの歌である「カムイ・ユカラ」として生き続けている。その美しい言葉の響きはいつまでも余韻として残る。その歌を聞いた洗礼名ペトロはこう言う。「世界はいつもむごくて,理不尽で,悲しみに充ちとるらしか。わしはパードレさまに救われて,きりしたんになれて,やっぱし感謝しとるよ。そいに,このチカ坊の歌にも救われとるな。さいわいなるかな,心の清き者,そのひとはデウスさまを見ん,というゼズスさまのおことばを,チカ坊の歌を聞いとると思い出すんよ。大げさに聞こえるかもしれんが,心の清き者の意味が,わしにもちいと見えてくる気がするんや。透明な水の流れに,そいは似とるかな。空の鳥かもしれん。野の花かもしれん。」(pp.344-345)