年末に読んだ「代書人バートルビー」の衝撃を引きずったまま,「バートルビーと仲間たち」(エンリーケ・ビラ=マタス 木村榮一訳 新潮社 2008)を読了。 「書けない症候群」に陥った作家たち,つまりは「バートルビーの仲間たち」の謎を解き明かすべく,本人もまたバートルビーである作家の主人公が彼らの足跡をたどる。
ソクラテスから,ランボー,サリンジャー,ピンチョン,カフカ,メルヴィル,ホーソン,ショーペンハウアー,ドゥルーズ,ゲーテ...とかいつまんで順番に挙げていくだけでも,これは「小説」なのか「文学史(論)」なのか,と読者はキツネにつままれたような読書体験だ。しかしその一方で,自らも鬱病のふりをして勤め先を休み続けるという,まさにバートルビーとして生きる「わたし」の物語を読み取ることで,この「小説」の面白さを堪能した。
作品中に登場する数多のバートルビー族の中には名前も知らなかった作家も多い。フェリスベルト・エルナンデスはぜひ読んでみたい。「フィクションの非現実的な空間を創造し,(この人生には何かが欠けているということを伝えようとするように)終わることのない短編を書き,扼殺された声を作り出し,不在を生み出した。/彼の不完全な結末の多くは忘れがたいものである。(略)フェリスベルトの不完全な短編を思い出したので,今後は遊びで家具につまづきながら最後に去って行くことにしよう。独り者のパーティーがわたしは好きなのだ。そのパーティーは人生そのもののような感じがする。フェリスベルトの短編と同じで,不完全ではあるけれども,本物のパーティーなのだ。」(pp.90-91)
作品の終盤近く,ボルヘスを語る章も忘れがたく記憶に刻まれる。「わたしは人生そのもののように現実的な虎のことを考えている。その虎は否定(ノー)の文学を研究している人間を待ち受けている確たる危険の象徴なのだ。というのも,否定(ノー)の作家について調べてゆくうちに,時に言葉に対する不信が生まれ,言葉が人生を語るのではなく,言葉そのものが世界であることに気がつく。」(p.158)
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