2021-07-11

読んだ本,「塩の像」(ルゴーネス)

 バベルの図書館シリーズのルゴーネスの短編集「塩の像」(牛島信明訳 国書刊行会 1989)を読了。大西亮訳とはかなり印象が違う,端正な訳。大西版の「不可解な現象」は「説明し難い現象」と訳されている。同じバベルの図書館シリーズでも,「アルゼンチン短編集」の「イスール」(内田吉彦訳)とこの牛島訳の「イスール」はかなり違う。

 原語はわからないが,内田訳では「慈愛に満ちた」という形容詞が牛島訳では「十分な人間味を帯びた」となっていて,受ける印象は随分違うと思うのだが,瑣末なことだろうか。もちろん,この言葉の登場する場面(ネタバレなので伏せときます)の解釈の仕方によるのだろうけれど。

 2つの短編を読み比べることができて,面白かったとしか言いようがない。遠い国,遠い時間。コルタサルに惹かれて手にした「アルゼンチン短編集」のおかげで遠くへ遠くへと旅を楽しんだ。

 「塩の像」,「火の雨」など幻想文学の魅力全開の短編もよかったけれどボルヘスが序文で「この上なく微妙な愛の物語のひとつ」という「ジュリエット祖母さん」がとりわけ痛切に印象に残る。

 「彼らがそのような気持になったのはこれが初めてであった。それが滑稽だとは気づきさえしなかった。それというのも,ついに明かされ,合意した自分たちの楽園のもたらす感動にすっかり酔いしれていたからである。ところが月が,普通なら幻想をかきたてるのに好都合な月が,このたびは夢をぶちこわしてしまった。ひとすじの月光が老女の頭髪を照らしたかかと思うと,その時,男の唇で微笑んだのは死だったのである。真っ白け!そう,長い年月に抗して,そのふさふさとした芳しさを今でも脳裡に焼きつけていた髪は,彼のと同様,真っ白になっていたのだ。悪いのはシェイクスピアだった。いったい,誰がそんなことを信じるものか! 合わせて百二十歳という,恐るべき年齢の演じる恋愛沙汰をまともにとるなど!」(p.142)

2021-07-03

読んだ本,「アラバスターの壺/女王の瞳 ルゴーネス幻想短編集」(ルゴーネス)

 「アルゼンチン短編集」で初めて読んだルゴーネスが魅力的で,光文社古典新訳文庫にラインアップがあるのを知って嬉しくなった(大西亮訳)。早速,読了。これぞ幻想小説という作品世界にどっぷり浸かる。不穏な世界に安心するというなぞかけのような読書だった。

 ルゴーネス(1874-1938)はボルヘスが敬愛してやまない作家だという。訳者による解説が詳しい。「ボルヘスやカサーレス,コルタサルを中心とする『ラプラタ幻想文学』の源流に位置する作家」とある。

 「アルゼンチン短編集」所収の「イスール」はサルにことばを話させようとする科学者の話。本書の「不可解な現象」もサルがモチーフになっている。モチーフ? 否,人間と動物の曖昧な境界としてのサル。境界? それも違う。ルゴーネスの小説世界において,人間と限りなく合一化する動物としてのサル。男はこのように告白する。

 「苦悩に満ちた覚醒が訪れるようになったある日の晩,わたしはおのれの分身をこの目で見てやろうと決心しました。忘我の眠りのなかで,わたし自身でありながらわたしから出ていくものがいったい何なのか,それを見届けてやろうと思ったのです」(p.96)

 それが猿なのだった。「わたし」と「男」の会話を,食堂の隅から息をひそめるように盗み聞きした私は,この短編の結末が「男」の体験した哀しき現実だったのか,それとも「わたし」と「男」と読者である私の3人が見た幻想だったのか,今もわからない。

 ところで,ラテンアメリカ文学における猿のイメージはどうしてもオクタビオ・パスの「大いなる文法学者の猿」に結びついてしまう。ルゴーネスの猿はパスに何らかのインスピレーションを与えたのだろうか?どうにも難解で何度も挫折した「大いなる…」をこの機会に再チャレンジしてみようか,と無謀にも考えている。