原語はわからないが,内田訳では「慈愛に満ちた」という形容詞が牛島訳では「十分な人間味を帯びた」となっていて,受ける印象は随分違うと思うのだが,瑣末なことだろうか。もちろん,この言葉の登場する場面(ネタバレなので伏せときます)の解釈の仕方によるのだろうけれど。
2つの短編を読み比べることができて,面白かったとしか言いようがない。遠い国,遠い時間。コルタサルに惹かれて手にした「アルゼンチン短編集」のおかげで遠くへ遠くへと旅を楽しんだ。
「塩の像」,「火の雨」など幻想文学の魅力全開の短編もよかったけれどボルヘスが序文で「この上なく微妙な愛の物語のひとつ」という「ジュリエット祖母さん」がとりわけ痛切に印象に残る。
「彼らがそのような気持になったのはこれが初めてであった。それが滑稽だとは気づきさえしなかった。それというのも,ついに明かされ,合意した自分たちの楽園のもたらす感動にすっかり酔いしれていたからである。ところが月が,普通なら幻想をかきたてるのに好都合な月が,このたびは夢をぶちこわしてしまった。ひとすじの月光が老女の頭髪を照らしたかかと思うと,その時,男の唇で微笑んだのは死だったのである。真っ白け!そう,長い年月に抗して,そのふさふさとした芳しさを今でも脳裡に焼きつけていた髪は,彼のと同様,真っ白になっていたのだ。悪いのはシェイクスピアだった。いったい,誰がそんなことを信じるものか! 合わせて百二十歳という,恐るべき年齢の演じる恋愛沙汰をまともにとるなど!」(p.142)