2015-03-16

2015年3月,横浜赤レンガ,ダンス・ワーキング・プログラム キックオフパフォーマンス

 赤レンガ倉庫1号館のホールを訪れたのは初めて。「横浜赤レンガ倉庫ダンス・ワーキング・プログラム キックオフパフォーマンス」を見てきました。このプログラムは2015年5月から2016年3月にかけて,中村恩恵がディレクターを務める「知る」「観る」「体験する」で構成される教育プログラムです。
  何と言ってもお目当ては主要メンバーの首藤康之。今回のキックオフパフォーマンスでは世界初演になるPrelude for Didi & Gogoが披露されました。これは中村恩恵と首藤康之のデュエットです。ショパンの前奏曲28番にのって,ゴドーを待ち続けるDidiとGogoを二人が演じます。

 「約束」は本当に「約束」なのか。「約束」の相手はそもそも誰なのか。その相手はそもそも存在するのか。中村恩恵のベケット作品へのアプローチは,時と空間を超える。つまり,踊り手の身体と観る者=私が共鳴することによって,ゴドーを「待つ」二人が今ここに「在る」。うまく言葉にできなくてもどかしいのだけれど。

 この日は小㞍健太と渡辺レイという若い舞踊家二人の出演もあったのですが,彼らの肉体は若々しく,生々しい息遣いを感じてしまう。しかし,首藤康之の身体と舞踊は,言ってしまえばこの世のものとは思えないのです。

 手を伸ばせば届きそうな場所で,彼が踊っているという事実。客席と舞台が一体となる,というのはどこか陳腐な表現に思えるけれど,もしそれが本当ならば,私の身体と魂もまた結界を越えてしまうのではないか。この人が目の前で踊り続ける限り。
 
 この日の演目は全部で5つ。ほかに「亜麻色の髪の乙女」,「Two」,「Andante」「Homage to」がドビュッシー,ベートーベン,バッハ,デュティユーのピアノソロに合わせて踊り継がれました。

2015-03-08

2015年3月,東京松濤,ロベール・クートラス展

   松濤美術館で開催中のロベール・クートラス展を見てきました。ロベール・クートラス。堀江敏幸の著書「一階でも二階でもない夜」(回送電車Ⅱ)を読んだときに始めて知った名前です。
 
   いつか機会があれば実物を見てみたいと思っていたので,松濤美術館での開催を知ったときは本当にうれしかった。2月初に堀江敏幸と遺作管理人である岸真理子・モリア氏との対談が行われていたことは気付かずにいて,痛恨の極み。

 クートラスはタロットカード様に切り抜いたボール紙に油絵具で描くcarteの製作に没頭,生涯約6000枚を製作したということ。美術館の部屋にはその約12センチ×6センチくらいのcarteが整然とフレームに収まって展示されています。その配置もまた美しいのですが,1枚1枚に描かれているモチーフが,人面の蝶や鳥,悪魔,聖母子そして骸骨などなど奇怪でありながらユーモラスです。

 これらのcarteはすべて「僕の夜 Mes Nuits」というタイトルです。堀江敏幸は著書ではこれを「我が闇」と訳していて,作品集として出版されたときに邦訳として前者が固定したということなのか,実物を見た印象としては確かに「我が闇」はちょっと重すぎる印象。毎晩毎晩,アトリエで1枚ずつ描かれたこれらのcarteはまさに画家の夜そのものなのではないか。

 フレームから取り出して,1枚ずつ手にとって眺めることができたらよいなあ,とそんなことを夢想してしまう。

2015-03-07

2015年2月,東京目黒,目黒七福神めぐり/瑞聖寺

 2月のこと,澄みきった青空のもと,お誘いを受けて目黒七福神を巡るウォーキングに参加させてもらいました。知らないことばかり,東京にこんな場所があったのか!という楽しい午後。
 
 集合場所の目黒不動尊を出発して,蟠竜寺(弁財天)・大円寺(大黒天)・妙円寺(福禄寿,寿老人)・瑞聖寺(布袋尊)と巡る約3時間の旅です。最後の毘沙門天の覚林寺は自由拝観となりました。かなり寒かったのでこちらはカット。
 

 
 大黒様の大円寺がとにかく楽しい。明和の大火の火元となったため,供養のための大円寺石仏群が建てられた,なんて全く知らないことばかりです。五百羅漢像にはただただ圧倒されました。そもそも大黒様はインドの神様なんだ,とかパンフレットを読みながら,へえ~の連続。
 
  縁結びにご利益がある,と書いてある魔荷車に刻まれているのは一体何だろう?とにかく三百回ほど回そうじゃないか!
 
 瑞聖寺は禅宗の一派の黄檗宗の寺院。「臨済・曹洞宗とは趣を異にする中国風様式の禅風」(ツァーチラシより)を伝えるという稀有な建物の本堂も拝観させてもらって(説明は夢うつつ),清々しい気分で帰路に着きました。写真の梅の花は瑞聖寺で。他の3枚は大円寺で。
 

読んだ本,「暗黒寓話集」/「往生際の悪い奴」(島田雅彦)

 島田雅彦の新刊を2冊読了。新刊と言っても「暗黒寓話集」(文藝春秋)は2014年11月刊,「往生際の悪い奴」(日本経済新聞社)に至っては2014年8月刊だから,今まで発売と同時に読破していた島田ファンとしては申し訳ない気持ちになってしまう(誰に?)。
  「往生際の悪い奴」は最近の谷崎潤一郎路線(?)とでもいえばよいのか,小悪魔的な若い女性をめぐる男性たちの悲喜劇が描かれる長編小説で,一気に読み終えてそれでおしまい。自分とほぼ同年代の作家が「往生際の悪い」奴を同病相哀れむ,みたいな視線で描くのが読者である自分にも跳ね返ってきて,切なくなる。若い女性の心理にもまったく共感できない事実もまた,切ない。往生際が悪いんだな,私も。

 「暗黒寓話集」は文芸誌などに掲載された短編8編をまとめたもの。こちらも読み終えて感じたのはさほど暗黒でもないな,というもの。2冊とも島田ファンとしてはちょっと物足りない。収穫は「暗黒寓話集」の「名誉死民」の一節。以下引用します。(p.139-140より)

 ヨシキが読んでいた漫画以外の本はわずかに三冊。そのうちの一つが「聖書」であり,「老子」であり,「ギリシャ神話」だった。その三冊は父親が選んだ。彼はよくこんなようなことを息子にいっていたそうだ。―この世界には真によむべき本はそう多くない。全部で百冊くらいだ。無理してカントやマルクスを読めとはいわない。どうせ読めないから。でも,この三冊だけは読んでおけ。死なずに済むから。
 結局,ヨシキは三冊の本を読み切る前に死んでしまった。読めなかったから,死んだのか,読み切っても死ぬ運命だったのか,それとも,あまりに読書が辛くて死ぬことにしたのか,わからない。ただ一ついえるのは,死なない人なんていないということだ。人と神のあいだに生まれたヘラクレイトスも,神に選ばれたモーゼもイエスも,不老不死を目指した仙人たちもみんな死んだ。

2015-03-01

2015年2月,東京溜池山王,ショスタコーヴィチ

 先月はとうとう1回しか更新できませんでした。人生そこそこの年月を過ごしてきて,これほど心身の負担が大きかった日々があっただろうか,という2月でした。すべての悩みの根源であった昨春以来の職場を離れることを決めて,開放感に浸っています。(すべての事象は一方通行ではないわけで,私が迷惑をかけてしまった各方面には謝罪の言葉もないのですが。)忘れないうちに2月のできごとをいくつか忘備録として。
  2月7日,久しぶりにサントリーホールへ。広上淳一指揮の読売交響楽団でハチャトゥリアンとショスタコーヴィチを聴きました。交響曲第5番は「社会主義リアリズムの高尚な理想」と評されたらしい,という漠然とした予備知識しかありませんでしたが,プログラムの解説には「最終楽章の輝かしい高揚は,精神的葛藤の超克だろうか,あるいは,そこにアイロニーやパロディの匂いを嗅ぎとるべきなのだろうか」とあります。

 「ショスタコーヴィチの証言」(中公文庫)にはこの最終章について「あれは強制された歓喜なのだ」という記述があるらしい(某ウィキペディアで仕入れた知識。しかも同書には偽書説もあるのだという)。

 藝術を楽しむときに,ポリティカルな側面に対する無知・無関心を決め込むことは愚かな態度だとはよくわかっているのだけれど,読むべき書物の膨大さにひるんでしまうのも事実。手元にある吉田秀和のエッセイ「新・音楽展望」(朝日新聞社1994)の目次にショスタコーヴィチの名前を探して,その人生のごく一面をかじった気になっておくことにしてしまおう。