多和田葉子の「エクソフォニー 母語の外へ出る旅」(岩波現代文庫, 2012)を読む。第1部「母語の外へ出る旅」はダカール,ベルリン,ロサンジェルス,パリ,ケープタウン,奥会津…と全部で20の地名が章の名前になっていて,それぞれの土地の言語状況を,著者が旅をして身体感覚として捉えて言葉にしている。第2部「実践編 ドイツ語の冒険」は,「空間の世話をする人」「嘘つきの言葉」などなど,魅力的なタイトルの10の章からなっている。
それぞれのエピソードはどれも興味深いものだが,何よりも「言葉を追って旅をする文学者」という生き方に圧倒される。「言葉」の真実を信じる者にとって,世界は狭いのだ,と思う。人を羨むなら,その前に自ら努力したかをおのれに問うのが私の信条とするところだけど,この人の生き方そのものは単純に羨ましい,とも思う。
ドイツ語という言語そのものの中にドイツの歴史が刻み込まれている,という文脈に続いての次のような一節はとりわけ印象に残る。「書くことは叫ぶことと複雑な関係にある。(略)多くのものは,叫びたくても声を持たないので,眼ばかり大きく見開いて,人間たちが壊れていく様子をまのあたりにしながら,聞こえない叫びの中で死んでいくしかない。又,書く代わりに本当に叫び始めてしまったら,精神病者ということにされてしまう。書くことは叫ぶことではない。しかし,叫びから完全に切り離されてしまったら,それはもう文学ではない。」(p.28より引用)
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