9月3日まで開催されていたアラーキーの展覧会にぎりぎり駆け込んだ。何といえばよいのか,タイトルを字義通り解釈すれば,この人は「写真に狂った老人」なのかもしれないけれど,「写真家であり,狂人であり,老人」でもあるのかもしれない。これだけの写真を目の当たりにして,「この人は狂っている」という感想を抱くのは不謹慎だろうか。今日は老人を敬う日だというのに!
入口の「大光画」はあまりの生々しさに目をそむけたくなる女性の裸体が並ぶ。生理的に無理,という作品も多くて足早に抜けると「空百景」と「花百景」の展示。
ここで魂を吸い込まれるような感覚を味わう。明らかにメープルソープへのオマージュのような花もある。あ,やっぱりアラーキーは好きだ,と思うとまた「遊園の女」の展示のコーナーでは無理。とまるでジェットコースターみたい。そうか,ここは大人の遊園地なのか。
「切実」の展示は面白かった。一度切り裂いた写真をコラージュした作品だから「切実」というわけ。Ripping the Truthというタイトルの英訳も,なんだか切羽詰まった感じが伝わってくる。
2017-09-17
読んだ本,「芝生の復習」(リチャード・ブローティガン 藤本和子訳)
アメリカの新しい翻訳物は一時期夢中になって読んだけれど,アップダイクやレイモンド・カーヴァーとかP・オースターといったあたりがメインで,ビートニクの作家はほとんど手を出していない。ケルアックやギンズバーグも文学史的な知識が少々,というだけだ。
読まず嫌いというわけではないけれど,なんとなく気が進まない,というジャンルではある。なぜかは自分でもよくわからない。きっと自分にはピンとこないだろうというカンみたいなものだ。今年の夏,アンティークフェルメールで店主の塩井さんからブローティガンを勧められたものの,ついつい後回しになっていたのはそんな理由から。
まずは短編集をと思い,「芝生の復習」(新潮文庫)を手にとってみた。そして冒頭の表題作を読んで,ピンとどころかガツンとやられた感じ。「Revenge of the lawn」,その不思議な言葉の組み合わせの通りの出来事が淡々と語られる。丸裸の鵞鳥,何ガロンもの灯油をかけられて火を放たれた梨の木。乾いた詩に心がヒリヒリとする。
コルタサルの短編のように不条理な出来事が綴られるわけではないのに,どこか不穏な空気をまとった日常の世界にぐいぐいと引き込まれていく。時折,「わたし」は誰なのか,「君」は誰なのか,自分が主人公の映像を夢の中で見ている感覚になる。そう,ブローティガンを読むのは,不思議な夢をいくつも見続ける夜のようだ。
「径には見なれない奇妙な花が咲きみだれている。わたしは一歩一歩,峡谷のいくつもの曲がり角で姿を消して行くのだが,そこを過ぎると,ついには太平洋と,そのドラマチックな浜に到着する。もしイエスが生きていた時代にカメラがあったら,かくばかりの写真がとれただろうと思われるような海岸で,そこに着いたきみはいまやその写真の光景の一部になる。だから,実際にそこにいるのかどうかを確かめるためにわれとわが身を抓ってみなければならないこともある。」(「砂の城」p.231より引用)
読まず嫌いというわけではないけれど,なんとなく気が進まない,というジャンルではある。なぜかは自分でもよくわからない。きっと自分にはピンとこないだろうというカンみたいなものだ。今年の夏,アンティークフェルメールで店主の塩井さんからブローティガンを勧められたものの,ついつい後回しになっていたのはそんな理由から。
まずは短編集をと思い,「芝生の復習」(新潮文庫)を手にとってみた。そして冒頭の表題作を読んで,ピンとどころかガツンとやられた感じ。「Revenge of the lawn」,その不思議な言葉の組み合わせの通りの出来事が淡々と語られる。丸裸の鵞鳥,何ガロンもの灯油をかけられて火を放たれた梨の木。乾いた詩に心がヒリヒリとする。
コルタサルの短編のように不条理な出来事が綴られるわけではないのに,どこか不穏な空気をまとった日常の世界にぐいぐいと引き込まれていく。時折,「わたし」は誰なのか,「君」は誰なのか,自分が主人公の映像を夢の中で見ている感覚になる。そう,ブローティガンを読むのは,不思議な夢をいくつも見続ける夜のようだ。
「径には見なれない奇妙な花が咲きみだれている。わたしは一歩一歩,峡谷のいくつもの曲がり角で姿を消して行くのだが,そこを過ぎると,ついには太平洋と,そのドラマチックな浜に到着する。もしイエスが生きていた時代にカメラがあったら,かくばかりの写真がとれただろうと思われるような海岸で,そこに着いたきみはいまやその写真の光景の一部になる。だから,実際にそこにいるのかどうかを確かめるためにわれとわが身を抓ってみなければならないこともある。」(「砂の城」p.231より引用)
2017-09-03
2017年8月,富山南砺市,「デルゲ印経院 チベット木版仏画展」
8月の忘備録として。富山県南砺市にある福光美術館にでかけて「チベット木版仏画展」を見てきました。南砺市の「瞑想の郷」所蔵のデルゲ・パルカン(徳格印経院)木版仏画の全点初公開とのこと。
チベット仏教美術を見るのは,2009年に上野で開催された「聖地チベット ポタラ宮と天空の至宝」以来です。興味はあるのだけれど知識が追い付かず,今回も会場で解説パネルとにらめっこをしながらゆっくり見て回りました。
会場入り口のドゥンコル立体像はなかなか見る機会のないものだそう。上野で見たたくさんの仏像とどう違うのだろう。。そして本尊を中心に右1,2…,左1,2…と順番で見ていくのは分かったけれど,どうにも会場の順路と反対周りじゃないのか。。文字通り右往左往してしまう。
それでもだんだんペースをつかめてきて,釈尊生涯八相などは見ていて面白い,と感じてくるから不思議。ところで,技術面でいえばこれらの仏画は極めて技量の高いものということ。さらに,16世紀以降の仏画はどれを見てもほとんど同じということなので,これらを一通り見て覚えておけばチベット文化圏の仏画はほとんどどれが何かということは理解できるものらしい。(→こちらのブログを参考にさせていただきました。https://stod-phyogs.blogspot.jp/2017/07/2b-3.html)
ふむふむ。古書市で買った図録と今展のリーフレットでしっかり復習しておこう!いつかチベットへも行ってみたいものです。福光美術館はとても気持ちのよい建物でした。金沢市内から車で40分くらい。
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