堀江敏幸の近刊で未読の2冊を読了。「曇天記」(都市出版 2018.3)は「東京人」に連載の掌編集。「オールドレンズの神のもとで」(文藝春秋 2018.6)はさまざまな媒体に掲載された短編集。初出は2004年,表題作は2016年と幅がある。
「曇天記」は第7回以降毎回,鈴木理策の写真とともに掲載されていたらしい。掲載時を見ていないのであくまで憶測だけれど,これは写真が先なのか,文章が先なのか,いずれにしても「写真家の眼」と呼応する「作家の言葉」なのじゃないか,という印象。表紙カバーの写真にしても,曇天にちりばめられたような鳥の影があってこその川と橋と電車の風景であり,それを拾い上げるのが堀江敏幸という作家なのだと思う。
「ここにいる不思議とここにいない不思議」は客のいないテーブルに料理を並べる料理人の話。「あの店のあの空席には,やはり姿の見えない誰かがいたのではないか。彼が店を閉じる決意を固めたのは,彼らから,虚構を支えていたのとおなじ言葉を頂戴したせいではないか。ここにいる不思議は,ここにいない不思議でもあるのだ。」(p.120)
「オールドレンズの神のもとで」を読んで,この作家と私という読者との相性を再認識したように思う。年を追うごとに,強烈さが増す自意識に,私は芒洋と置いていかれる。「果樹園」(2007)に魂が震えたかと思うと,「オールドレンズの神のもとで」(2016)は,もはや「よくわからない」としか言いようのない読後感にひどく疲れた。
「もう一度,後ろから守らせてほしいと望んだときには,そこにいないのである。犬たちの動きを観察しながら私のなかであたらしく発見されたのは,甥っ子をあずかっていたときの背後からのまなざしだった。約束された不在の予感が,いっそうの愛しさを生み出すのだ。」(「果樹園」 p.39)
「後頭部にガーゼを貼った少年は,過去が未来を追い越し,未来が過去に食い込むさまをじっと見つめている。しかしここでは時間を追い越すことも,時間に追い越されることもできない。色のなんたるかに気づいたわたしは,傾いた電柱の列にはさまれた二車線の道路が,追い越し禁止であることを認める。後戻りもせず,進むという選択も捨てないのであれば,追い越し可能になる道が開けるまで,じっと我慢するしかない。」(「オールドレンズの神のもとで」p.199)