2015-11-23

2015年11月,東京上野,「始皇帝と大兵馬俑」展


  東京国立博物館で開催中の「始皇帝と大兵馬俑」展にでかけてきました。5月に西安を訪れた記憶も生々しいまま,ああ,やっぱり好きだわ。と広い会場をゆっくりとまわります。NHKで特集番組があり,始皇帝陵の城壁復元CGなどをわくわくしながら楽しみました。
そして数日を経て,日曜美術館のアートシーンでも紹介されていました。解説者と司会者が兵馬俑の魅力について,「芸術や美の領域を超えて,製作した人たちの永遠を願う想いがここにある」と話していて,かなり違和感を覚えてしまう。

 ギリシャ彫刻を持ち出してその「美」とは違う,という指摘はどうなんだろう。兵馬俑の一体一体が放つ,強く深い力や,数千もの彼らが整然と並ぶ様を,「美」とは別のものと言われたら,じゃあそれは何だろう。

 地下に埋められて二千年以上の時を経てここにある兵馬俑も銅車馬も,比類なき美しさです。始皇帝の「永遠への願い(=執着)」を具現化した膨大な数の人の手の仕事をこそ,至高の芸術の一つと言ってよいのではないかなあ。

 東洋館でも俑の特集展示があります。東洋館はいつ行っても空いていて,アジア旅行気分を楽しめるので大好き。
 

2015-11-16

2015年11月,東京丸の内,プラド美術館展

 三菱一号館美術館で開催中の「プラド美術館展 スペイン宮廷 美への情熱」展を見てきました。プラド美術館の膨大なコレクションからエル・グレコ,ベラスケス,ゴヤのスペイン巨匠を始め,フランドルの巨匠ボスやルーベンスの作品が来日している評判の展覧会。

 名前を見るだけでは,あの美術館にそんなに大作が並べられるだろうか(物理的に)と思ってましたが,意外なことに「小さい絵」がほとんどなのです。プラド美術館で2013年に「小さい絵」という基準で選ばれた作品で構成された展覧会「Captive Beauty-Treasures from the Prado Museum」の世界巡回展なのだそう。

 ほう,そういうことかと思いながら展示室を進むと,これがとても楽しい。「小さい」ので,一つ一つを覗きこむように眺め,細密画を見ているように細部にまで意識が届きます(会場がそれほど混んでなかったおかげもあるのですが)。

 ぜひ見てみたかったボスの「愚者の石の除去」は縦48.5センチ,横34.5センチというサイズ。人物の奇妙な描写や遠景を,板絵の繊細で緻密な表現で楽しむことができて面白かった。写真はヤン・ファン・ケッセルの「Asia」というタイトルの銅版に油彩の11枚組絵。(主催者の許可を得て撮影したものです)
  歳を重ねてこのところ,「記憶」ということについてよく考えます。何かを「覚えている」「思い出す」とは人の生においてどんな意味があるのだろう。

 私の場合,何かを「見る」ことでまざまざとある事柄だったりものそのものを「思い出す」ことがとても多いのです。この日,ボスを見ていてミュンヘンのアルテ・ピナコテークの一室でデューラーを見たあと,ボスの展示の前で日本人の女の子と短い言葉を交わしたことを思い出しました。フランス・ハルスやメムリンクもしかり。人は最後に「ああ,楽しかった」と思うために生きているのかもしれない,などとつらつら考えてしまった一夜でした。 

2015-11-09

2015年11月,横浜赤レンガ,中村恩恵・首藤康之ほか Silent Songs

 横浜赤レンガ倉庫ダンス・ワーキング・プログラムのファイナルである中村恩恵の新作公演「Silent Songs」を見てきました。首藤康之,渡辺レイ,中村恩恵,小㞍健太の4人が,「振付家・S」,「元主演女性舞踊手・R」,「妹・M」,「完全な若者・K」を演じて,長い年月封印されてきたSilent Songsを復刻公演しようと挑むというストーリーです。倉庫のデッキ部分から見たホールの窓。
 
 前半は「振付家・S」が舞踊の歴史を読み解き,出演者を教化し,後半はSilent Songsが上演されます。前半は単純に楽しい。首藤康之の「牧神の午後」の動きなんて写真でしか見たことがなかったので,思わず身を乗り出す。
 
 しかし後半に入ると舞台は一気に不穏と狂気が支配します。首藤康之のダンスはソロか中村恩恵とのデュエットしか見たことがなかったので,男女2人ずつの群舞(と言えるかどうか)は新鮮でもあり,微妙な違和感を感じるものでもありました。
 
 男と女がいて愛と死がすべての世界に,女同志(しかも姉妹だ),男同士(振付る者と振付けられる者)という関係が持ち込まれて,愛憎のベクトルが幾重にも交錯する。観客は息をつめて「失われた歌」が永遠の向こう側から再び此岸へと舞い戻ってくるのか,ひたすらその一瞬の光を見逃すまいと彼らの肉体を凝視する。
 
 ただただ圧倒的な約1時間の舞台でした。赤レンガ倉庫のホールは最前列が舞台と同じレベルなので,早めにでかけて最前列に席をとりました。眼の前で見る首藤康之のソロパートは,ストーリーと切り離して見てもやはり圧巻で,その差しのべられた手の先には神の領域があるとしか思えない。
 
 冷たい雨の降る11月,こんなに海が近かったのか,とホールを出てデッキから望む水平線。

2015年10月,東京町田・自由が丘,工芸の展覧会2つ「沖縄の工芸」展/「スザニ」展

  10月のこと,手仕事の美しさを堪能する展覧会を2つ,見に行きました。一つは町田市立博物館で10月18日まで開催されていた「沖縄の工芸」展です。琉球ガラス・陶磁器・染織・琉球漆器がずらり。紅型やガラスの美しさはもちろんのこと,琉球漆器に眼を奪われます。

 琉球王国時代に中国から伝わったという琉球漆器の歴史は長く,祭祀や儀式に用いられただけでなく,中国皇帝への献上品として数々の優品が生まれたといいいます。黒漆の雲龍文螺鈿盆などは,中国の漆器かと錯覚を覚えます。薩摩が侵攻するまでの,琉球と中国の長く深い交わりをあらためて気づかされた思いでした。

 アクセスが不便な町田市立博物館は面白そうな企画展がたくさんあってもなかなか足を運べずにいたのですが,今回は最終日の会場で旧知の知人にばったり遭遇して,お互いにびっくり仰天!こんなところ(←失礼ですよね。)で!昨冬にガラスの鼻煙壷展が開催されていたとその人から聞いて,痛恨の極み。美しい解説冊子をいただいて帰りました。

 
 もう一つは自由が丘の岩立フォークテキスタイルミュージアムで11月14日まで開催中の「スザニ」展。「中央アジアの服装」というサブタイトルです。アフガニスタン,トルクメニスタン,ウズベキスタンで入手したという華やかで美しい刺繍にうっとり。大胆な模様が太目の絹糸でみっしりと刺されていて,この布を身にまとった人たちが中央アジアの草原を馬で駆ける様子が目に浮かんできます。行ってみたいなあ。
 
 2014年に法人化されたばかりという小さな美術館ですが,とても気持ちのよい展示です。講演会やギャラリートークも充実している様子。次回展の「インド北部の毛織物」展も楽しみ。 

2015-11-08

2015年10月,鎌倉御成町,李禹煥「美術館という空間」

 秋を足早に通り越して初冬のような風が吹く午後。連休の初日,久しぶりに訪れた鎌倉は駅に人が溢れています。賑やかな小町通りとは反対側の西口から,鎌倉商工会議所会館の地下ホールを目指して歩きます。神奈川県立近代美術館の最後の展覧会にあわせて「近代美術館とわたし」という連続講演会の第2回,李禹煥氏による「美術館と空間」を聴講してきました。
  神奈川県立近代美術館という稀有の存在について,それを失うことは鎌倉にとって大きな損失だと熱弁する。アーティストは美術館に育てられるものだ,とも。1993年に開催された個展の際に,熟知しているつもりだった美術館の空間と自分の作品との間に迷いが生じたと語り,スライド画像の鉄板と石のわずかな角度のずれなどを説明。あらためてこの芸術家にとって対象物としての作品と「場所・空間」との関係性を目の当たりにした思いです。
  この作家の作品世界を「観ること」「理解すること」はあまりに難しいし,講演で語られた言葉たちを私の解釈でここに書き留めるのは何か不遜な思いがしてしまいます。なので,今までに読んだことのある彼の著作から印象に残っているものを引用します。著書としては「時の震え」(1988)や「余白の芸術」(2000)が代表作ですが,詩集「立ちどまって」(2001 書肆山田)もとても刺激的です。

 「僕はと言うときその中に/僕そのものは含まれているのか/僕はと言うときその中に隣の彼は含まれているのか/僕はと言うときその中に/周りの物たちは含まれているのか/僕はと言うときその中に/昨日の死者たちは含まれているのか/僕はと言うときその中に/見知らぬ山河は含まれているのか/僕はと言うときその中に/明日の僕は含まれているのか」(「立ちどまって」pp46-47より引用)

 意外,と言っては失礼だけれど,飄々とした優しい風貌のその芸術家から発せられた問いかけは,石と鉄と墨の作品世界が観客に「これは何か」と投げかける問いと同じく難しい。

 講演終了後,佐助トンネルを抜けて地図を片手に「もやい工藝」へ。ちょうど小鹿田焼を特集販売していました。大分の山奥にある桃源郷のようなその集落を訪れた秋の日のことを思い出しながら,夕暮れのひとときを過ごしました。