2015-11-08

2015年10月,鎌倉御成町,李禹煥「美術館という空間」

 秋を足早に通り越して初冬のような風が吹く午後。連休の初日,久しぶりに訪れた鎌倉は駅に人が溢れています。賑やかな小町通りとは反対側の西口から,鎌倉商工会議所会館の地下ホールを目指して歩きます。神奈川県立近代美術館の最後の展覧会にあわせて「近代美術館とわたし」という連続講演会の第2回,李禹煥氏による「美術館と空間」を聴講してきました。
  神奈川県立近代美術館という稀有の存在について,それを失うことは鎌倉にとって大きな損失だと熱弁する。アーティストは美術館に育てられるものだ,とも。1993年に開催された個展の際に,熟知しているつもりだった美術館の空間と自分の作品との間に迷いが生じたと語り,スライド画像の鉄板と石のわずかな角度のずれなどを説明。あらためてこの芸術家にとって対象物としての作品と「場所・空間」との関係性を目の当たりにした思いです。
  この作家の作品世界を「観ること」「理解すること」はあまりに難しいし,講演で語られた言葉たちを私の解釈でここに書き留めるのは何か不遜な思いがしてしまいます。なので,今までに読んだことのある彼の著作から印象に残っているものを引用します。著書としては「時の震え」(1988)や「余白の芸術」(2000)が代表作ですが,詩集「立ちどまって」(2001 書肆山田)もとても刺激的です。

 「僕はと言うときその中に/僕そのものは含まれているのか/僕はと言うときその中に隣の彼は含まれているのか/僕はと言うときその中に/周りの物たちは含まれているのか/僕はと言うときその中に/昨日の死者たちは含まれているのか/僕はと言うときその中に/見知らぬ山河は含まれているのか/僕はと言うときその中に/明日の僕は含まれているのか」(「立ちどまって」pp46-47より引用)

 意外,と言っては失礼だけれど,飄々とした優しい風貌のその芸術家から発せられた問いかけは,石と鉄と墨の作品世界が観客に「これは何か」と投げかける問いと同じく難しい。

 講演終了後,佐助トンネルを抜けて地図を片手に「もやい工藝」へ。ちょうど小鹿田焼を特集販売していました。大分の山奥にある桃源郷のようなその集落を訪れた秋の日のことを思い出しながら,夕暮れのひとときを過ごしました。

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