2016-04-22

2016年4月,読んだ本,「その姿の消し方」(堀江敏幸)

 堀江敏幸の最新刊(2016年1月)の「その姿の消し方」(新潮社)を読む。フランスの古物市で見つけた絵葉書に書かれた「詩」に惹かれた「私」が,その作者=絵葉書の差出人であるアンドレ・Lを巡って,旅と出会いと思索を重ねる,という素敵な物語だ。
  この作家の作品世界は小説のような,エッセーのようなとよく言われる通り,現実と夢想の境界上を揺蕩うような輪郭の曖昧な言葉と物語が魅力的である。(ちょっと,作家の強烈な自意識が鼻につくこともあるのだけれど。)

 このアンドレ・Lなる人物(文学者ではない)の書いた絵葉書を何通も見つけたり,その縁者と親しくなって文通をするなど,およそ現実離れした物語を読むと,思わずロンドンやブルージュのアンティーク市で買い求めた古い絵葉書を引っ張り出して目を凝らしてしまう。いつか自分の物語が突然,始まることを夢想しながら,本を閉じる。

 「消えた光景,消えた人物,消えた言葉は,最初からなかったに等しくなる。以前はそんな風に考えていた。しかし欠落した部分は永遠にかけたままではなく,継続的に感じ取られる他の人々の気配によって補完できるのではないかといまは思い始めている。視覚がとらえた一枚の画像の色の濃淡,光の強弱が,不在をむしろ「そこにあった存在」として際立たせる。」(p.121より引用)

2016-04-19

2016年4月,君子蘭の開花

  今年も変わらず,君子蘭の美しい花が開きました。平穏な日々を揺るがす地震のニュースに心が痛みます。他者の苦痛へいかなるまなざしを向けるべきなのか。ショッキングな映像が延々と続くテレビを消して,深い思索の書の中にそのヒントを探したいと思っています。

2016-04-10

2016年4月,読んだ本,「エクソフォニー 母語の外へ出る旅」(多和田葉子)

 多和田葉子の「エクソフォニー 母語の外へ出る旅」(岩波現代文庫, 2012)を読む。第1部「母語の外へ出る旅」はダカール,ベルリン,ロサンジェルス,パリ,ケープタウン,奥会津…と全部で20の地名が章の名前になっていて,それぞれの土地の言語状況を,著者が旅をして身体感覚として捉えて言葉にしている。第2部「実践編 ドイツ語の冒険」は,「空間の世話をする人」「嘘つきの言葉」などなど,魅力的なタイトルの10の章からなっている。
  それぞれのエピソードはどれも興味深いものだが,何よりも「言葉を追って旅をする文学者」という生き方に圧倒される。「言葉」の真実を信じる者にとって,世界は狭いのだ,と思う。人を羨むなら,その前に自ら努力したかをおのれに問うのが私の信条とするところだけど,この人の生き方そのものは単純に羨ましい,とも思う。

 ドイツ語という言語そのものの中にドイツの歴史が刻み込まれている,という文脈に続いての次のような一節はとりわけ印象に残る。「書くことは叫ぶことと複雑な関係にある。(略)多くのものは,叫びたくても声を持たないので,眼ばかり大きく見開いて,人間たちが壊れていく様子をまのあたりにしながら,聞こえない叫びの中で死んでいくしかない。又,書く代わりに本当に叫び始めてしまったら,精神病者ということにされてしまう。書くことは叫ぶことではない。しかし,叫びから完全に切り離されてしまったら,それはもう文学ではない。」(p.28より引用) 

2016年4月,東京銀座,シャルル・フレジェ「YÔKAÏNOSHIMA」展

 銀座メゾンエルメス フォーラムで開催中のシャルル・フレジェ展を見てきました。銀座は確かに外国からの旅行客が多く,以前はエルメスの1階売り場を通り抜けて階上のフォーラムへ向かうのが気恥ずかしいものでしたが,週末の午後,店内は品定めする人たちでいっぱい。広げられた美しいスカーフなどなど,横目でうっとりしながら通り過ぎます。
 シャルル・フレジェは初めて聞く写真家。民族衣装や伝統衣装などをシリーズで撮影しているらしい。チラシによれば「それぞれの土地に潜む驚くべき多様な人間の営みを,人類学的・民俗学的にも興味深いポートレートとして納め続けて」いるのだそう。
 
 今展は日本に取材した「YÔKAÏNOSHIMA」シリーズがメインで,欧州の「WILDER MANN」も合せて100点ほど。日本各地の,仮面を身に着けた神や鬼たちの姿は,驚くほど人間と自然との営みの近さを感じさせるものばかり。
 
 もう一つ驚いたのが,東北の虎の仮面や島根のサギの衣裳などが,朝鮮半島の民画に描かれた虎や鶴舞(ハンム)の衣裳によく似ていること。土着の文化と言えども,渡来文化の影響を受けているのでしょう。昨年の神田古本市で「変幻する神々 アジアの仮面」(1981年展覧会図録・日本放送出版協会発行)という1冊を購入したのを思い出しました。ゆっくり読んでみよう。

2016年4月,東京用賀,「ファッション史の愉しみ」展

 
 桜の季節にはいつも出遅れてる気がします。今年も満開の週末を逃して,ようやく砧公園に出かけて,いよいよ散りぎわの花見を決め込むことに。枝にしがみつくようにして咲く,心なしか寂しげな桜たち。
 
 世田谷美術館で開催中の「ファッション史の愉しみ」展にも立ち寄ってみました。展示室中盤まで,延々と続く服飾誌のページや版画の展示にちょっと飽きてくる。それらの画中から飛び出してきたような衣裳の展示も,マネキンの顔があまりよろしい趣味ではなくて残念。
 後半は舞台衣装だったり,物語性のある画が増えてきて俄然面白くなりました。それにしても,と思ってしまうのは,展示されている服飾史やその時代に生きる人々の息遣いを楽しむよりも,これらを蒐集した石山彰という人物の蒐集にかける情熱を楽しむのがこの展覧会の意図かもしれないということ。最後の,同氏の著作や蒐集した書籍を展示したコーナーが一番面白かったかな。
 
 この美術館にはいろいろ思い入れがあるのだけれど,地下のカフェではフロアに響き渡る嬌声をあげる若い女の子のグループにうんざりし,なぜか特別展の会期中に常設展会場がクローズしていることにびっくりし,ちょっとブルーな気分で駐車場へ向かう。途中,伐採された公園の樹木が折り重なっている。カメラのドラマチックシーンモードで。