2026-07-08

読んだ本,「地衣類,ミニマルな抵抗」(ヴァンサン・ゾンカ)


 「地衣類,ミニマルな抵抗」(ヴァンサン・ゾンカ著 宮林寛訳 みすず書房,2023)読了。不思議な書物だ。どんな風に不思議なのか,植物分類学の博士である大村嘉人氏のまえがきから引用させてもらうと,「本書は,地衣類を通じて,時や空間を超えて異なる世界あるいは文化を繋げようとしている。扉の先には,地衣類が紡ぎだす様々な世界が広がっている,さあ,異国への旅が始まる」という一文に凝縮されているようだ。

 異なる世界あるいは文化を繋げるという意味で,古今東西の文学作品からの引用が多い。第一部第二部でそもそも地衣類とは,という視点からその文化的表象を紡ぎ,様々な国の現代詩人と美術家の仕事を紹介する第三部がめっぽう面白い。そして,第四部では科学的な地衣類像から現代社会における「協働」や「共生」の概念へと展開される。

 地衣類・文芸(特に詩)・美術に興味があってこの本を手に取った私のような読者は,第四部はそこまでとはちょっと異質な内容に感じられてしまうが,この「共生」の概念こそ,この分厚い本のメッセージらしい。時間をかけて読み終えて,軽く肩透かしをくらったような,やや徒労感の残る読書体験だった。

 第二部「記載し,命名し,表象する」における日本のワビサビと苔や地衣類をめぐる考察はとても面白く読んだ。「生育が緩慢な地衣類だからこそ,自然の中に流れる時間を告げ,その時間を計る尺度となって,自然の永遠性についても,その不安定さについても,時間の跡として物に残された古色や錆についても,あるがままに伝えることができるのだ。」(p.115)

2026-07-06

2026年7月,風蘭の開花


 風蘭の春及殿が開花しました。2年前に株分けをした子株の方。腰を痛めてからなかなか植物の世話に手が回らない中,かわいい花をつけてくれてとっても嬉しい。

 

2026-06-19

2026年6月,東京東銀座,「六月大歌舞伎 昼の部」

 歌舞伎座で昼の部を観劇。「祇園祭礼信仰記 金閣寺」は時蔵の雪姫。獅童の松永大膳が貫禄たっぷり。華やかな「戻駕色相肩」に続いてはなんと「子連れ狼」! またまた獅童が大奮闘。大音量の主題歌だったり,時代劇そのもののチャンバラだったり,まるでテレビの時代劇を劇場で生放送(?)で見てるみたい。めちゃくちゃ面白かった。次男の夏幹くんが大五郎。「金閣寺」がまさに歌舞伎の定番という演目なので,二度おいしい,という感じの昼の部を堪能。

2026年6月,東京松涛,「中央アジアの手仕事:華麗なる刺繍とジュエリー」・「中央アジアを紡ぐ旋律」コンサート

 松涛美術館では「中央アジアの手仕事:華麗なる刺繍とジュエリー」展を見る。随分と前に「シルクロードの装い」展という展覧会を見たことがあって,書棚の中で手に取りやすい場所に図録を置いてある。図録を見たら2004年の開催(東京都庭園美術館)で,おお,懐かしいという思いと,20年以上も経っているのかという愕然とした思いと。

 展覧会場は,一瞬どこかの学校の団体が来場しているのかと錯覚してしまうほど若い人たちで溢れている。えっ,と思いつつ,人気があるのが嬉しいし,なんとなく誇らしい気持ち?になってくる。そうよね,素敵よね,と話しかけたくなってくる迷惑な年寄りぶりなのである。漫画の「乙姫語り」の影響もあるのかも。


 運よく,関連イベントの「中央アジアを紡ぐ旋律 シルクロードの伝統楽器ドゥタール」コンサートに当選して,地下ホールで1時間近くの演奏を楽しむ。ドゥタールは「二弦」という意味の弦楽器。二胡みたいでもあるしシタールみたいでもある。演奏の駒崎万集さんはウズベキスタンの伝統音楽芸術大学修士課程に在籍中のエネルギッシュでチャーミングな女性。魔法にかかったように時間があっという間に過ぎていく。 

2026年5月・6月,東京上野毛ほか,「館蔵 陶芸展」・「美を味わう 懐石のうつわと茶の湯」

 展覧会の記録がたまってしまって,まずは5月に五島美術館で「館蔵 陶芸展」を見る。毎年,中国陶磁の展覧会が開催される時期に今年は朝鮮・日本の陶芸も併せての展示。ちょうどギャラリートークに参加できた。テーマは中国陶磁に絞ったトークで,学芸員氏の中国陶磁愛の熱量が半端ない。収蔵に至る来歴の話が面白く,楽しい時間を過ごす。でも私の一番は朝鮮白磁だったかな。井戸茶碗も。

 静嘉堂@丸の内では「美を味わう 懐石のうつわと茶の湯」展を見る(6月14日で終了)。器の展覧会が続くな,とそれほど期待せずに出かけたら大興奮の内容。懐石のうつわなので,陶磁器,漆器,ガラス,それに茶杓や盆などの木製品などなどバラエティ豊かな作品が次々と現れて楽しいことこの上ない。

 陶磁器は日本,中国と朝鮮だけでなくベトナムやオランダのものも。日本向けに焼かれた釜山窯は,これまで朝鮮陶磁器を見てきた中でも新鮮な驚き。釜山には是非行ってみたい。陶磁器を見るという目的ができた。

 デルフトの向付や,黎朝期のベトナムの器たちに心奪われる。安南染付の雲龍文字文獣足平鉢は,これも見たことがない形状に目が釘付けになる。いろいろ見てきたつもりだったけど,未知の世界が広がってることがとにかく嬉しい。ベトナムにもまた行きたいなあ。ハノイの骨董街で宝探しができたらどんなに楽しいだろう。



2026-06-12

読んだ本,「Ifの総て」(島田雅彦)

 
 「Ifの総て」(島田雅彦 新潮社2026)読了。2024年からの「新潮」の連載が単行本化されたもの。雅彦ファンとしては速攻(?)で購入して読まなくてはならぬ,と思ったもののなかなか読み進めることができず,途中に何冊か寄り道もしてようやく読み終えた。

 帯の惹句には「文学と政治の交差点を大冒険するエンターテイメント衝撃作!」とある。主人公の花村薫は生成AI「カオス・ジェネレーター」を使って歴史上のIFの世界=「ありえたかもしれない世界」であるメタ現実に入っていく。

 前作の「大転生時代」もしかり,どこか「私にはついていけない」という通奏低音が常につきまとい,長い長い島田読書遍歴の一つのピースを読み終えたのだ,という半ば強制的な達成感を味わっている。

 もちろん,物語の後半にかけて一気呵成に読み進める面白さがあるし,結末には希望もある。部分的にささる文章もあちこちにある。そう,私には「優しいサヨクのための嬉遊曲」を手にしていなかったらというIFがあり得ないのと同じくらい,これから生み出される作品を読まない未来というのも想像できないな,と何だかよくわからないけれども,これが愛読者の宿命?

 「あり得たかもしれない別の現実に希望を見出すつもりが,絶望しかなかった。正直,歴史にはほとほと愛想が尽きた。いや歴史にとことん嫌われたというべきか。結局,過去を変えようとするあらゆる行動は裏切られることになっているみたいだ。それはつまり,過去の出来事の帰結が現在であり,未来であるという考え自体が間違っているということではないか。」(p.229)

 「確かに過去にも未来にも絶望しかなかった。希望は現在にしかないということかなと思った。」(p.286)

2026-05-31

2026年5月,神奈川川崎,東京交響楽団・川崎定期演奏会

撮影可のカーテンコールで。
 東京交響楽団の定期会員に申し込んで,ミューザ川崎に定期演奏会を聴きに行く。今年は年間5回,楽しめるのがうれしい。ソロ客演の顔ぶれが豪華で(8月は角野隼斗,10月はガルシア・ガルシアのピアノ,12月は宮田大のチェロ),個別にチケットを取るのに神経を使わなくてすむ。それだけでもラッキーというもの。

 初回のこの日は翌日の音楽監督ロレンツォ・ヴィオッテイの就任披露特別演奏会と同じプログラムでR.シュトラウス「4つの最後の歌」とラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」という構成。

 歌曲はマリーナ・レベカのソプラノが圧巻。プログラムの歌詞対訳(広瀬大介訳)がとても助かる。4曲のうち3曲がヘルマン・ヘッセ,1曲がアイヒェンドルフの歌詞による。シュトラウスの音楽での「遺書」というこの歌曲,『春』の「夜明け前の墓の中で/長いこと夢見たのは/あなたの樹々と青い空」で始まり,『夕映えの中で』の「さすらいにも飽き果てた/これが死というものか」で終わる。美しい響きにうっとりするけれど,音楽とは芸術とは,生と死すなわち生命の体験なのだと改めて気付かされる。

 そして休憩後のラヴェル「ダフニスとクロエ」はディアギレフの依頼を受けて作曲された音楽。合唱付きの演奏だが,この合唱には歌詞がない。楽器の一つという扱いなのだろうか,前半の歌曲に続いて,人の身体から発せられる深い響きに震える。最終幕の〈全員の踊り〉のオーケストラの熱狂。

 プログラムの「初演」の項目に「1912年6月8日パリ(シャトレ劇場),ピエール・モントゥー指揮,美術・衣装はレオン・バクスト,振付はミハイル・フォーキン,配役はヴァスラフ・ニジンスキー(ダフニス),タマラ・カルサヴィナ(クロエ)」とあるのを見て,思わずバレエ・リュスの公演を目のあたりにしているような錯覚を覚える。まるで映画を見るように。

 帰宅して三浦雅士「バレエの現代」(文芸春秋),「バレエ入門」(新書館)を開く。バレエの舞台を見たわけではないけれど,「ある意味では,踊ることは演奏することであり,演奏することは踊ることなのだ」(「バレエの現代」p.40)という一節などを深く実感した一日だった。

2026-05-12

読んだ本,「無意味の祝祭」(ミラン・クンデラ)


  「無意味の祝祭」(ミラン・クンデラ 西永良成訳 河出書房新社 2015)読了。2023年に他界したクンデラが「無知」(2003)以来10年ぶりに2013年に発表した小説が2015年に邦訳されたもの。訳者解説は巻末ではなく,出版社のメルマガの形で読むことができる。クンデラが自身の小説には本文以外の要素をつけることを認めない方針だからという。これまでの単行本や文庫本にはいずれも解説やあとがきが付されているので,この小説に限ってということだろうか。

 その解説によれば,これはもともとフランスで15-6世紀に流行した世俗演劇である「阿呆劇」というジャンルなのだという。たしかに,小説らしいストーリー展開というより,上機嫌を求める登場人物たちの無責任で奔放な(しかし無意味ではない)雑談によって構成されるユーモア劇のよう。

 そして読者はクンデラの筆に導かれて一篇の小説を読み終えるわけだが,最後にこんな台詞に邂逅してがつんとやられる。そしてこれぞクンデラの小説を読む愉悦であると再確認するのだ。

  「ねえ,きみ,無意味とは人生の本質なんだよ。それはいたるところで,つねにわれわれにつきまとっている。残虐行為,血腥い戦闘,最悪の不幸といった,だれもそれを見たくないところにさえも無意味は存在する。これほど悲劇的な状況のなかでも無意味を認め,それをその名で呼ぶにはしばしば勇気を要する。しかし大切なのは,それを認めることだけではなく,それをつまり無意味を愛さなくてはならないということだよ。無意味を愛するすべを学ばなくてはならないということだよ。(略)無意味は叡智の鍵,上機嫌さの鍵なんだから。」(p.136)

2026-05-09

2026年4月・5月,東京上野毛ほか,展覧会,観劇,映画の記録

 4月からGWにかけての記録をまとめて。五島美術館では「名品を彩るアンティーク・テキスタイル」展を見る。「古裂」とは言わないことに新鮮味を感じた展覧会。美しいインド更紗に目を奪われる。またインドに行きたいなあ,が展示とは無関係だけど一番の感想。

 國學院大學博物館では「和の硯」展を見る。日本の硯約200点が惜しげもなくというか,ずら~と並ぶ圧巻の展示。美術館なら代表の逸品を数点,という展示の仕方もあるだろうけど,これだけの質量を以て迫力十分に迫ってくるのも,なんだか感動してしまう。文房四宝の参考展示としての現代の水滴も面白かった。

 4月の観劇・観能は歌舞伎座に右近と真秀の連獅子を幕見席で見る。国立能楽堂では定例公演「熊野」と狂言「鶯」を見る。月間特集が「下村観山と能」ということで,アフタートークもあり。近代美術館の下村観山展は前期の弱法師を見逃してしまって,後期は体調すぐれず結局,行けなかった。のちのち後悔しそうだ。 

 GWは人出を避けて外出は近場のみ。渋谷ル・シネマでアラン・ドロン「サムライ4Kレストア」を見る。クールな殺し屋のドロンがあまりにかっこよすぎ。ノックアウトされてふらふらになって渋谷区ふれあい植物センターへ移動。こじんまりした温室にびっくり。まあ,都心も都心だから仕方ないか,と思いつつおいしい地元トマトのピザをいただく。

2026年4月,東京上野,「百万石! 加賀前田家」・東博能「羽衣」

 GWに突入する日に東博へ向かう。上野駅公園口からとにかく人が多い(私もその一人なわけで)。時間がたっぷりあるセミリタイア生活なのになんでそんな日に,と思われそうだけど,「百万石! 加賀前田家」展とタイアップの宝生流の能公演「東博能」のチケットを取ったのがこの日だったわけ。公演数が多い割に,あっという間に完売の公演も多くてびっくり。仮設舞台の能一番だけで自由席5500円はお手頃なのか割高なのか,不謹慎にもそんなことを考えてしまう。

 早めに博物館に到着して,公演の前にじっくり「百万石! 加賀前田家」展を鑑賞。これが質量ともにすごい展示で,東博の本気!を見た感じ(失礼)。国宝や重文がずらずら並ぶ会場に興奮おさまらず。「加賀前田家歴代」「百万石の文化大名」「加賀前田家の武と茶の湯」「天下の書府」「侯爵前田家のコレクション」の5章立ての展示で,鑑賞にはエネルギーの配分(?)が必要かも。「天下の書府」と,茶道具や能装束をメインに据えて堪能する。

 かなり体力を使ったものの,東博能「羽衣」も天井が高く反響する会場での観能は新鮮で面白い。能面も宝生流に伝わる古い面とのことで雅な時間を過ごす。シテは野月聡師,ワキは福王和幸師。

 東博では他にも見ごたえのある特集展示がいくつも。「アイルランド チェスター・ビーティー・コレクション 絵巻と絵本のたからばこ」は狩野山雪「長恨歌絵巻」や「酒吞童子絵巻」などなどが素晴らしく美しい状態でダブリンから招来されている。伊藤若冲「乗興舟」は昨年,エド・イン・ブラック展でも見たけれど,この摺りの美しさには驚くばかり。


  東博本館ではほかに特集展示「キリシタン関係遺品の保存と研究」も興味深く拝見。キリシタンが聖母マリアなどの聖像として信仰したとみられるのは,ほとんど本来観音菩薩像として造られたものだった,とのこと。明~清時代の美しい観音菩薩立像の数々を息をつめるように,見る。

2026-04-24

2026年4月,東京恵比寿,TOPコレクション Don't think. Feel.・読んだ本,平野啓一郎の新作短編

  東京都写真美術館のコレクション展「Don't think.  Feel.」展を見る。「考えるな,感じろ。」は「燃えよドラゴン」の中でブルース・リーが発したセリフの一部。ブルース・リーを敬愛する著名人は多いので,誰かがこのセリフをそっくりに真似ていたのをテレビで見たことがあり,かなり強烈な印象として甦ってきた。武術も美術も「感じること」こそ神髄ということか。

 写真美術館は足繫く通ってきたので,コレクション展は見たことのある写真ばかりが淡々と並んでいるのかと思いきや,「感じること」をテーマに据えてとても見ごたえのある展示。「Don't think.  Feel.」「家族写真の歴史民俗学」「川内倫子〈Illuminance〉」「記憶の部屋」「イメージの奥にひそむもの」の5室から構成されている。

 写美のコレクションのビッグネームがこれでもかと並んでいるので,印象に残ったものを挙げていったらきりがない。第1室の中平卓馬はプリントではなく「来たるべき言葉のために」が出陳されている。

第4室の高梨豊は「東京人」から5点。

 第5室は安井仲治と中山岩太に感動。中山岩太は「上海から来た女」も見たかったなあ。とはいえ,こんな豪華なラインナップに贅沢は言うまい。思う存分「感じた」展覧会だった。お腹いっぱい。
 ところで,新潮5月号に掲載の平野啓一郎「決定的瞬間 The Decisive Moment」(130枚)を読了。タイトルのカルティエ=ブレッソンからもわかる通り,写真がモチーフで,主人公は「新メディア美術館」なる美術館の学芸員の女性。写真展を企画・準備している。もちろんその写真家は架空の人物だけど,物故写真家が実名で登場するし,その虚実の混交感が写真好きにはなんだかすっきりしない。ストーリーはこの時代に合っていて面白く読んだけれど,これは映像化は難しいんじゃないかな,とそんなことを思った。ストーリーとは離れて,The Decisive Momentに関する豆知識がためになりました。 


2026-04-21

2026年4月,植物に癒される,君子蘭の開花・「ポール・ヴァーゼンの植物標本」(ポール・ヴァーゼン 堀江敏幸)


  今年も開花した君子蘭。この冬が寒かったせいか,いつもより元気がない。当たり前のように毎年の開花を楽しみにしているけれど,寿命というのもあるのだろうか。

 古本博覧会で買った1冊「ポール・ヴァーゼンの植物標本」(ポール・ヴァーゼン 堀江敏幸,リトルモア 2022)をまず読み終える。というか,堀江敏幸の文は読み終えて,美しい標本は繰り返し繰り返し眺めている。表紙をめくって最初の1枚がエーデルワイスで,とても嬉しい。堀江敏幸の掌編はルソー「孤独な散歩者の夢想」についての言及が興味深い。

 この植物標本は湯島の古道具店アトラスの店主が南フランスの蚤の市で見つけたものだという。出版時には話題になっていたし,展覧会も開催されたらしい。湯島の店舗に行ってみたいなあと思う。ここのところ,体調がすぐれず鬱々と過ごしていたが,古書市にでかけていろいろ希望!が沸いてきた。

2026年4月,東京神保町,全ニッポン古本博覧会


  今年の神保町の春の古本市は,全国約130の古書店が参加するその名も「全ニッポン古本博覧会」! 日程をチェックしてなくて,友人からの一報に慌てて出陣する。遅参は許すまじ(誰が?)。

 実に実に楽しい古本市だった。まずは古書会館のB1階と4階で稀覯本や美術品をゆっくり眺めてから3階,小川町広場,靖国通り沿いの回廊へと向かうつもりが,最後は時間切れ。主に古書会館3階で買い集めたのがこんな感じ。三鷹のりんてん舎の棚から選んだものがほとんど。実は昨年,武蔵野大学能楽資料センターの講演を聴きに行ったときに,バスの中からこの古書店を見かけて,途中下車するかちょっと迷ったのだった。今度はゆっくりと古書店を訪ねる一日を作ろう。

 希少な写真集は全般的に値段が上がっているみたい。関西の古書店のブースで鈴木清「流れの歌」(署名入り)を見つけて思わず手に取って見せてもらったけど,私には手が出ない金額。中平卓馬「来るべき言葉のために」もすばらしいコンディションの1冊を出陳している古書店があったけれど,手も足も出ないお値段。

最近の読書,コルタサル「遊戯の終わり」・建畠晢の長編詩


 国書刊行会のラテンアメリカ文学叢書の佇まいが好きで,古書店で見つけると購入している。コルタサルの「遊戯の終わり」は文庫で既読のつもりでいたのだが,書棚には見当たらないし,過去の読書記録にも見当たらない。未読だったか,と焦るような,未知のコルタサルを読めるわけだと喜ぶような,おかしな心理状態で読み進める。

 そしてこれはまさに読書の喜びだという実感にひたる。「続いている公園」や「夜,あおむけにされて」など,選集に選ばれて既読の短編もいくつかあるが,この「遊戯の終わり」は短編集として編まれたものなので,1冊を通してコルタサルの幻想世界をたっぷりと堪能。

 どの一つとして期待を裏切られない。とりわけ深く心に残ったのが「山椒魚」という一編で,山椒魚に取り憑かれて毎日植物園に通う「ぼく」はやがて意識だけがそっくり山椒魚に乗り移ってしまう。

 その変身を,毒虫に変身したザムザと比較する訳者の木村栄一による論考がとても興味深く,読後の大きな刺激を味わった。ザムザが変身後もこの世界内に閉じ込められているのに対して,「ぼく」はすでにこの世界を抜け出して「水槽の中」の世界に身を置いている。つまり,この短編は非現実の世界の住人となった「山椒魚=ぼく」からの「別世界通信」(「コルタサル論」p.205)というわけ。

 これぞラテンアメリカ文学を読む愉しさだし,カフカと比較すると同時に思わず井伏鱒二の「山椒魚」を思い出したし,濃密な読書の時間を過ごした。「秘密の武器」(国書刊行会 世界幻想文学大系)も既読の短編がほとんどだが,短編集として通して読み進めているところ。

 ここのところ,読書の記録をちゃんと残していなかった。現代詩手帖の2月号の特集「イラン現代詩を読む」は私にはハードルが高かった。ちゃんとペルシャ文学の流れを勉強してからでないと。現代詩手帖1月号「現代日本詩集2026」は建畠晢氏の新作長編詩を読みたくて手に取る。「態度が形になるとき」というその一編は同名の古書店主とのやりとりが面白く,詩人の頭の中をのぞいてみたくなる。

2026-03-31

2026年3月,東京目白ほか,展覧会の記録

  この3月はたくさんでかけて,頭の中がスクランブル交差点状態。まずは静嘉堂@丸の内で「たたかう仏像」展を見る。怒髪天を憑く三彩神将俑とか大迫力。高麗時代の預修十王生七経は海印寺に現存する版木を用いたもの,という解説に思わず韓国旅行を思い出して胸が高鳴る。この春,また韓国に行きたいんだ。

 目白の永青文庫では所蔵の東洋彫刻コレクション「アジアの仏たち」展を見る。数としては中国の石仏や金銅仏が多いけれど,インドの彫像の面白さに興奮。4階展示室で端正なヒンドゥー教神像や仏像をたっぷり楽しむ。パーラ時代(8~10世紀)の「弥勒菩薩坐像」の美しさ。2階展示室には小ぶりなチベットの金銅仏もあり,アジアの風を感じた午後。まだ桜には早い時期だった。白木蓮の花が美しい。

 後日,ふたたび目白にでかけて桜開花の学習院大学キャンパスを楽しみながら学習院ミュージアムで開催中の「Re:辻邦生ーいま,ふたたび作家に出会う」展(Part 1)を見る。パリ留学時代の日記や写真など,若き日の作家の文学への情熱にあらためて感動。読み返したくなる作品が多すぎて困る。夢中になった若き日の自分と向き合うことになるのか,いつしか離れてしまった理由を思い出すのか,年を重ねていろんなことを考える。Part 2の展示や「ことばと響きあう〈美〉と〈音〉」というタイトルの講座にも参加したい。
 上野の荘村清志のコンサートの前に東博で「韓国美術の玉手箱-国立中央博物館の所蔵品をむかえて」を見る。本館特別1室と2室を使った見ごたえたっぷりの特別企画。あの広大な国立中央博物館の展示室の一つ一つを思い出してドキドキしてくる。名品ばかりで,さっと見るつもりがほとんど凝視(?)する勢いで時間をかけて鑑賞。高麗青磁の美しさ。観音菩薩坐像の優雅さ。朝鮮国王国書の楷書と塗印にもうっとりする。その紙の艶と言ったら! 東洋館では書道博物館との連携企画「明末清初の書画」展もぎりぎりで見ることができた。
 3月はほかに,東洋文庫でリニューアル・オープン記念の「ニッポン再発見-異邦人のまなざし」展を。朝ドラを楽しく見ていたので「ラフカディオ・ハーン書簡集」などにドキドキ。この展覧会とは直接は関係ないけれど,神保町で京都大学人文科学研究所の漢籍セミナーで「外国人の見た近代中国 異境の探索者たち」という講演会に参加した。時間の都合で「イザベラ・バードの見た清末の長江ー三峡・チベット・アヘン」(村上衛教授)のみ聴講。イザベラ・バードの名前を初めて知ったのは東洋文庫なので,ちょうどのタイミング。イザベラ・バードという人物を知り,「制度」を考える意味について学ぶ貴重な機会だった。会場は満席。

 そして桜満開の週末,砧公園にでかけて世田谷美術館開館40周年記念のコレクション展「世田美のあしあと」を見る。コレクションのダイジェスト版という感じで懐かしい作品ばかり。用賀駅に万博出品作というジュリアン・オピーの作品が展示してあって,いい感じ。

2026-03-26

2026年3月,上野・狛江・渋谷,荘村清志のギター・川口成彦のフォルテピアノ・映画「ジョン・クランコ」

 箍が外れたままの3月後半,あちこちに出かけたのとPCが不調で買い替えたりしていて記録が溜まりに溜まってしまった。気が付くともう桜の便りに街が浮き立つ頃に。

 東京・春・音楽祭2026のプログラムで東京文化会館小ホールに荘村清志のギターを聴きに行く。「武満徹 没後30年に寄せて」というタイトルのコンサートはオール武満徹プログラム。前半は「フォリオス」「ギターのための12の歌」より5曲,「すべては薄明のなかでーギターのための4つの小品」,後半は「エキノクス」「ギターのための12の歌」より4曲,「森のなかでーギターのための3つの小品」。なんとも贅沢なギター1本の2時間だった。荘村清志の武満徹への敬慕の想いが溢れる美しい演奏に思わず涙ぐみそうになる。

 狛江の駅からすぐの狛江エコルマホールに川口成彦のフォルテピアノによる「開館30周年企画 ベートーヴェンをたたえてⅧ 大公/皇帝」を聴きに行く。ピアノソロ「エリーゼのために」,ピアノ三重奏曲「大公」,ピアノソロ「幻想曲ト短調」,最後のピアノ協奏曲「皇帝」は古楽器の弦楽アンサンブルとの共演。
  
 「皇帝」ってこんなに美しい曲だったのか,という驚き。使用ピアノの1825年ウィーン製ヨハン・クレーマーは機嫌が悪かった(?)らしい。べダルのトラブルのハプニングは,1回限りのライブでしか味わえない楽しみということにして,また別の楽器・プログラムで彼の演奏を聴いてみたい。 
 文化村ル・シネマに「ジョン・クランコ バレエの革命児」を見に行く。「その美しさに、世界がひれ伏す」とある通り,シュツットガルト・バレエ団のバレエシーンも彼の見る幻想も,そして彼自身もあまりに美しい。舞踊関係を楽しんだあとはいつもの(?)「バレエの現代」(三浦雅士著 文芸春秋)を紐解く。こんな記述になるほど!と興奮する。

 「物語を捨てて純粋な動きの美しさそのものを求めたバランシンの抽象主義が,カニングハムのモダンダンスに流れ,あくまでも意味に固執し,物語を失うまいとするグレアムの表現主義が,ヨーロッパのモダンバレエに影響を与えたというのは皮肉だが,クランコは両者の総合を企てていたということになる。」(p.171)

2026-03-18

読んだ本,「死んでから俺にはいろんなことがあった」(リカルド・アドルフォ)

「死んでから俺にはいろんなことがあった」(リカルド・アドルフォ 木下眞穂訳 書肆侃侃房 2024)読了。スペイン語圏文学の棚に並んでいて,ジャケ買いならぬタイトル買いで手にした1冊。1人称の「俺」が饒舌に語る時間と空間は不条理に満ちている。

 「俺」は妻と幼い息子と一緒にただ家に帰りたいだけなのだ。言葉がまったくわからない異国の都会で夜中に道に迷ってしまったばかりに,恐怖の時間を過ごすことになる。

 読み進めるうち,「俺」は「くに」で罪を犯して妻と息子と「島」に不法入国した移民であることがわかる。タイトルの「死んでから」は肉体の死ではなく,社会的な「死」を意味していることがこんな一節から読み取れる。

 「俺はここの人間じゃないんだ。俺は存在していない。だが,死人のまま生きるのに慣れることなんでできやしない。」(p.29)

 2023年に翻訳された本作は2009年に発表されたという。日本でも移民問題の認知が進んで,この喜劇仕立ての小説が孕む貧困,移民,差別,家父長制などの問題が私たち日本人が身近に感じて読めるようになったということなのだろう。

 たしかに,ポリティカルに読んで考えるべき問題が詰め込まれてはいる。しかし,この「物語」が語るのは,「俺」は家に帰れるのかという一点だ。私は最後まで,「俺」は本当に生きているのか,妻と息子と同じ水平に存在しているのか,地下鉄を降りてバス停を探し,最後は飛行機に乗せられて結局行きつく場所は天国かそれとも地獄なのではないかと,ずっとハラハラしながら読み進めた。リカルド・アドルフォの語る「物語」は頗る面白かった。 

2026-03-14

2026年3月,東京・横浜,国立能楽堂定例公演・石田泰尚&石井琢磨リサイタル・ルパン歌舞伎

 寒さも緩み体調もよくなって,箍が外れたようにあちこち出かけているのでその記録を。まずは国立能楽堂で狂言「左近三郎」と能「須磨源氏」の番組で定例公演を拝見。行きたいと思ったときにはたいていチケットが完売してしまっているので,今回も譲ってもらったら,なんと正面席一列目。脇正面で見ることが多いので,こんな風に見えるんだ!という驚き。春の月明りのもと,光源氏がまさに目の前に現れて優雅に舞っているよう。能面とばっちり目が合って,雄弁に語りかけてくるような感覚は初めての,至福のひととき。資料展示室では「能面展」を見る。
 気持ちよい気候の一日,みなとみらいホールで石田泰尚&石井琢磨リサイタルを聴く。前半はモーツァルトとグリーグのヴァイオリン・ソナタ,後半はピアソラというプログラム。石井琢磨は寡聞にして知らなかったのだけど,今大変な人気のピアニストだそう。本プログラムは彼が希望したのだとか。前半も後半も二人の個性が響き合ってとてもよかった。アンコールのピアノ独奏「献呈」(シューマン)も美しく,若き才能に拍手喝采。アンコール最後のリベルタンゴがこの日のすべてを持っていったかも。

 そして新橋歌劇場でルパン歌舞伎「碧翠の麗城」を楽しく観劇。昨年の南座で見た第一作に続く二作目。前作では右近が演じた石川五右衛門を今作は片岡愛之助がルパンと二役を演じる。どうなのかな,と思っていたら,ルパンと五右衛門の早替わりが見せ場になってて面白い! そして今作はなんといっても中村米吉の瀬織姫が可愛く美しく,お見事というしかない舞台だった。理屈抜きに面白かった!