「最後に鴉がやってくる」(イタロ・カルヴィーノ 関口英子訳 国書刊行会 2018)を読了。カルヴィーノ自身のパルチザン経験を描いた初期の短編集。「短編小説の快楽」というシリーズの最終巻にカルヴィーノ登場!というわけで,期待度満点で手に取った。カバー絵は桂ゆき(ゴンベとカラス)。
全23篇,どれをとってもまさに小説の快楽を味わえる。「珠玉」というのはこういう本のためにある言葉だなあ,とおおげさではなく感心する。やはり表題作「最後に鴉がやってくる」が白眉だけれど,「三人のうち一人はまだ生きている」「ドルと年増の娼婦たち」「裁判官の絞首刑」など,目次を見ただけで,そこに広がる世界への期待に心が躍る。
「最後に鴉がやってくる」は,銃を構えた少年が向ける銃口が読者に向かっているかのような緊張感が漂う短編だ。否,読者に向かっているのは銃口ではない。引き金を引くように,と銃が差し出されているのだ。本物の銃を前にして,読者はどうしてよいかわからず,ただただぞっとする。
「銃声がするたびに兵士は鴉を見上げた。落ちるだろうか。いいや, 落ちる気配はない。その黒い鳥の描く輪は, 彼の頭上でしだいに低くなっていく。少年に鴉が見えていないということがあるだろうか。もしかすると,そもそも鴉なんて飛んでおらず,自分の幻影なのかもしれない。きっと死にゆく者はあらゆる種類の鳥が飛ぶのを見るものなのだろう。そしていよいよ最期というときに鴉がやってくる。いや,相変わらず松ぽっくりを撃っている少年に教えてやればいいだけの話だ。そこで兵士は立ち上がり,黒い鳥を指さしながら,「あそこに鴉がいるぞ!」と叫んだ。自分の国の言葉で。」(pp.161-162)
この後に続くラストの3行を「衝撃」という言葉で片づけてしまってよいものか。短編小説を読む快楽に浸った時間もまた,どんな言葉にすればよいのか,悩ましい。
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