2018-07-29

2018年7月,東京恵比寿,「イントゥ・ザ・ピクチャーズ」・「内藤正敏」展

  7月の写真展の忘備録として。東京都写真美術館のコレクション展「イントゥ・ザ・ピクチャーズ」はとてもとても楽しかった! 「まなざし」「よりそい」「ある場面」「会話が聞こえる,音が聞こえる」「けはい」「むこうとこちら」「うかびあがるもの」の7つの章で構成されていて,古今・東西を問わず,これらのテーマで写真が展示されています。

 いきなり高梨豊,ウィリアム・クラインときて,おおっとやられっぱなし。きりがないんだけれど,やはりロバート・フランクはたまらんなあ,とか中山岩太は好きだわあとかテンションあがりっぱなしです。

 そして「うかびあがるもの」のコーナーに足を踏み入れると,もはや金縛り! 久しぶりに中平卓馬のカラーをまとめて見ることができました。絶妙の,としか言いようのない組み合わせの2枚組が淡々と続く<日常>。この写真家の日常はもはや「こちら側」ではないのだ,という現実もセンチな気分をあおり,何とはなく目頭が熱くなる。

 写真美術館では「内藤正敏 異界出現」展も。古い銅鏡の写真など,突然「向こう側」が立ち現れる写真たち。

2018年7月,東京松涛・六本木,「アンティークレース展」・「清朝皇帝の愛したガラス」

 7月の忘備録として。松涛美術館で「アンティーク・レース展」を見ました。展示室は単眼鏡片手のマダムたちでいっぱい。西欧社会でのレースの歴史と役割を,とても丁寧に真面目に教えてくれる展覧会です。キリスト教文化とレースの展示が面白かったな。初聖体拝領用ドレスとか,聖杯カバーとか,日本人にとっては憧れという範疇を越えた神秘の世界の美,という感じ。
 もう一つ,うっとりつながりで「ガレも愛した清朝皇帝のガラス」展をサントリー美術館で6月に。清朝のガラスというからには鼻煙壺が楽しみ! コレクションはロンドンのV&Aから。V&Aの中国の展示室はこじんまりしていたけど,こんなにすごいコレクションが後ろに控えていたんだな。という展覧会。
 
 町田市立博物館や東博の所蔵品からも美しいものがたくさんで,被せガラスの騎馬人物文の瓶はサントリー美術館の所蔵品。日本人が愛した美しいガラスの世界を堪能しました。会場出口には町田市立博物館の鼻煙壺のコレクションが鏡を入れたケースに並べられていて,まるで万華鏡のような美しさ。1つ欲しいな,と不埒なことを考えてしまう。

読んだ本,「聖女伝説」(多和田葉子)

 多和田葉子の「聖女伝説」(太田出版 1996)は不思議で不可解な小説だ。文体はすらすらと読みやすく,読み進めるのに苦労しない。しかし,読み終えてはたと気付く。私は一体,何を読んでいたのだろう。「わたし」という少女の独白は,鶯谷さんや孔雀先生やヒバリたちとの不思議な関係の網の目をくぐるように羽ばたいていく。
 出版社の惹句には「性と生と聖をめぐる少女小説」とある。聖人を生むことなく,自らが聖人となろうとした少女の「新しい聖書」ということだろうか。
 
 多和田葉子の以降の小説世界を理解するための小説と捉えるのは本末転倒のような気もするが,しかし,言葉は常に遅れてやってくるものとすれば,近作の愛読者である私にとってはとても興味深い作品であることには相違ない。
 
 ところで,この小説,興味深い一節を引用しようとしたら,なんとノンブルがない。聖人になりたいと語る場面。カフカの「掟の門前」を思い出す。
 
 「<聖人を生むのが嫌なんです。わたしはマリア様にはなりたくない。わたしは,自分が聖人になりたいんです。>/その時,イエスも,マリア様の子宮の門を通って,この世に生まれてきたのだと気がつきました。イエスは,いくら血と肉を獲得するとためとは言っても,そういう湿った粘膜の門を潜って出るのはとても嫌だったに違いありません。だから,その門のことを忘れるために,別の門を作ったのかもしれません。(略)たとえば,天国に入るための門。礼拝堂の門。信者の町の門。門の中では正義が行われ,門の外には悪がはびこっています。異教徒が襲撃してきて,壊そうとする門,それは勝手に暴れ狂う海の吐き出す洪水,異教徒の槍の輝きから,我が身を守ってくれる門です。」(p.122*より引用。*頁番号は引用者のカウントによる)

2018-07-20

読んだ本,「絶望キャラメル」(島田雅彦)

 
  島田雅彦の新刊「絶望キャラメル」。装丁や巻頭の「ウォームアップコミック」には絶句してしまい,よほどスルーしようかと思ったのだが,雅彦ファンが新刊を読まずしてどうする,というわけで読了。「島田雅彦が贈る最高の青春小説」というキャッチフレーズだけど,これは「島田雅彦流の青春小説」だ。
 
 「絶望」が支配する地方都市の4人の若者たちの群像劇のはずだが,そこには「放念」という名前の住職がプロデューサーとして存在し,小説の最終盤では「絶望キャラメル」という小説が登場人物の一人,夢二の手掛けた小説のタイトルであることも明らかになる。
 
 夢二が進学した「H大学では文壇の最前線で踊り続けている小説家の指導を仰げそう」( p.223)って,これは島田雅彦本人のことじゃないか!というわけで,放念も4人の若者たちも常に作家の手のひらの上で踊っているんだな。読者の私は思わずにやにやして,また雅彦(呼び捨て…)の新作を首を長くして待つことになる。
 
 「自分が生まれる前の時代が輝いて見えるのは,おまえがそこにいなかったからだよ。その時代の悲しみや絶望を噛み締めずに済んだからだよ。どの時代に生まれても,人は絶望する。だから思う存分,絶望するがよい。希望は絶望を肥やしに育つのだから。そして,今よりもう少しましな未来を手に入れろ」(p.8)

2018-07-15

読んだ本,「地球にちりばめられて」(多和田葉子)

 帯状疱疹という病気に罹り,精神的にきつい日々を過ごした。痛みが辛いのは病気だから仕方がない。しかし,疲れやストレスがこの病気の原因なのだというそのことが重荷となってしまう。確かに疲れてますよ,では何に?生活の糧のための仕事はもちろんストレスですよ,でもそれがなければ生きていけないのですよ?
  とまあ,こういう交戦的な(?)精神状態がしばらく続いたが,痛みが少し和らいできてだんだん落ち着いてきたところ。なかなか本を手に取る気もしなかったのが,活字に飢えた少女のごとく,寝る時間も惜しんで「地球にちりばめられて」(多和田葉子 講談社)を読了。ただただ面白かった。

 留学中に母国である島国(「日本」という単語は一度も出てこない)が消滅してしまった主人公Hirukoが同じ母語を話す人間を探す旅に出る話。国が消滅すればパスポートもなく,国境を越えることもできない。しかし,言語は消えず,人と人はつながることが出来るのだ。

 一章ずつ語り手が変わる構成で,登場人物のほぼ全員が一人称で語るので,読者もまた彼らと一対一でつながることが出来る。唯一,Hirukoと行動をともにするクヌートの母親は語り手にはならない。小説のラスト,あまりに雑な(?)扱いに泣き笑い。ユーモラスというよりは「滑稽な」という形容詞がぴったりのこの母親ともつながってみたかったなあと思いつつ,本を置く。

 「『おまえは遭難した船みたいなものだ。大洋の真ん中で方角を失って,必死で波や風と戦っている。村に残った方が楽だったには違いないさ。でも船に乗ったことは後悔していないだろう。』/くさいセリフならいくらでもストックがある。無臭のセリフなんて面白くもない。みんなで泣ける物語だ。いっしょに泣ける人たちはまわりにいない。廃墟に一人取り残されたわたしが,物語の断片をかろうじて声にして,Susanooがその声に耳を傾けている。最後に生き残った二人。」(p.270より)