光文社古典新訳文庫でカフカの「訴訟」(丘沢静也訳 2009)を読む。「審判」の新訳なのだが,「審判」を読んだのがもはやウン十年も前のことで,内容はおろかちゃんと読み通せたのかどうかも記憶が定かでない。
なので,解説や訳者あとがきに記された「審判」との違いや,訳者の言うところの「負ける翻訳」の意味を味わうというよりは,カフカの未読の小説を読みやすい訳で楽しんだ,というところ。
そして,ヨーゼフ・Kはなぜ逮捕されたのだろうか,この審理とは一体何なのか,わけのわからないまま,もやもやとした想いをかかえてヨーゼフ・Kの「終わり」を迎えるのだ。カフカの小説を読むときはいつもそうであるように。
だが,この小説ではただ一つ,私自身にとって強く腑に落ちる場面に出くわした。「大聖堂で」の章。あっと思わず声を挙げそうになる。そうだ,短編「掟の門前」のモチーフは「審判」の中に出てくるんだった!
「掟の門前」を短編集の中で読んだとき,大きな衝撃とともに私はこの話を知っている,と思ったのだ。どこかで読んだ,と。そうか,ちゃんと読んだかどうかも覚えていなかった「審判」の中で聖職者がヨーゼフに語っているのだ。そのことに気づいたという事実が,何よりもこの新訳文庫を読み終えた悦びだった。こんな読者がいてもカフカは許してくれるだろう。
「…『どうして何年たっても,ここには,あたし以外,誰もやってこなかったんだ』。門番には男がすでに死にかかっていることがわかった。聞こえなくなっている耳に聞こえるように大声でどなった。『ここでは,ほかの誰も入場を許されなかった。この入口はお前専用だったからだ。さ,おれは行く。ここを閉めるぞ』」「門番は男をだましたわけだ」とKはすぐに言ったが,この物語に非常に強くひかれていた。「そんなに急ぐな」と,聖職者が言った。「他人の意見を鵜呑みにするものではない。お前には物語を,書かれてあるまま聞かせてやった。だましたなどとはどこにも書いてないぞ」。(pp.322-323)
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