表題作の「象牛」は南インドを舞台にした前作同様,インドで不可思議な物語が繰り広げられる。主な舞台はヴァーラナシー。今年2月にほんの1日滞在しただけなのに,あまりに強烈な経験が記憶としてよみがえる。
およそありえない出来事と共に,「象牛」もあの街になら本当に存在するのではないかと思えてしまう。ガンジス河沿いのガートの名称を地図で確認しながら,小説の登場人物たちがあそこにいるのだ,と読み進める。
ただ,インドの神々と性愛という小説のモチーフがどうにも読んでいて辛い。何か,無理やり「インドを描かねばならない」という強迫観念のようなものを感じてしまう。前作がインドを舞台に軽やかに仏教的世界を描いていたのに対して,重いのだ。「私」の愛も生き方も。
少し戸惑いながら,併録の「星曝し」を読む。私にはこちらの方が面白かった。枚方をモデルにした「比攞哿駄」を舞台にして,死者と生者の境界の曖昧な物語が繰り広げられる。この小説でも川がこの世とあの世を隔て,「私」は七夕の夜に川ベりで煤に汚れた少年に出会う。「私」の少年への告白に読者である私は足をすくわれて,川の中に転がり落ちてしまう。そこはあの混沌としたガンジス河かもしれない。
祖母のアパートで蚊取り線香に火をつける場面。「マッチ箱に手を入れて新しい一本を取り,しゅっ,ともう一度擦る。私は空いてる方の手を上げ,火をみつめながら,炎の熱のとどく境界の一線を指さきで薄闇になぞりだしてみる。恒星の引力の影響をうける運命的一線。惑星の崩壊するぎりぎりの生存の破線上を,漂うのだ,虚空に切り裂かれたマッチひと擦り分の光と熱のぎりぎり限界を人はさまよう,それが一生ということだ。」(p.168)
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