「コモリン岬に夕陽を追う」と「ガンジスの流れに沿って」,「ネパール酔夢行」の3つの旅が綴られる。同行者が破天荒な「コモリン岬」と,真面目な若者と旅をする「ガンジス」。旅として圧倒的に面白いのは前者なのだが,個人的にガンジス河への思い入れが強いので,やはり後者の記述には胸騒ぎの連続である。
ガンガーの日の出を見た詩人はこう綴る。「ぼくは厳粛な宗教的感情を経験するよりも,巨大な吐息に似たものが,胸底から,ぼくの胃の腑のあたりを揺さぶり,暗い咽喉部をじわじわと這いのぼってくるのを感じるのだ。人類全体が,巨大な徒労と吐息のなかで,車輪状に抛物線を描きながら,無限定の空間に散乱していくような幻覚に襲われる。ここには,すくなくとも,宗教的な求心力はない。ぼくの皮膚が感覚するのは,巨大な遠心力だ。なんともいえない,古代から未来をつらぬく倦怠のあらあらしいタッチ。倦怠というものが,かくもザラザラしたマテリアルな触覚で,ぼくを襲おうとは,夢にも思わなかった。」(pp180-181)
たまたま見たテレビ番組で,若いタレントが「1週間のインド旅行で人生観が変わったというヤツ」を笑いものにしていた。あのガンジスの流れを目の当たりにすれば,たとえそれが一瞬でも,「無限定の空間に散乱していく」幻覚を見るのだ。時間が経つにつれて,鮮烈な体験の記憶は徐々に薄れてしまいそうになるが,こうした先人たちの旅の記録を読むことで,記憶は確固とした言葉として私の中に刻まれていく。強く。深く。
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