サントリー美術館で開催中の「没後190年 木米」展を見てきました。「江戸の陶工にして画家・文人」という紹介されていますが,私には金沢九谷の祖というイメージ。第一章のやきものの展示には金沢春日山窯の紹介や金襴手の茶碗などもあって,そうそう,これぞ木米,と思わず独り言ちてしまったのでした。
で,これで終わりではせっかく出かけた甲斐がないというもの。個性あふれた煎茶道具や古陶磁の翻刻,そして絵画もとても魅力的。遺言として,陶土に亡骸を入れて窯で焼き山中に埋めてほしいと言ったと伝わるそう。文人の粋なのだろうか,それとも芸術に魅入られた人の狂気なのだろうかとしばし足が動かなくなりました。
ちょうど読み返していた辻邦生「橄欖の小枝」に木米論「孤高の行方」が所収されていて,こんな一節が心に残ります。「木米の製陶はひたすらこの美の実現に集中している。それは俗とか雅とかの考えも入る余地がない。木米が『陶説』を読んで陶の全体を摑んだとき,この全体が木米自身の存在理由となったのだ-そうした激しい直覚が木米の魂を貫いたのだ。だからこそ,この美を実現することは,生の変転を超えた,ある安心立命に達することになるのだった。」なお,同稿によれば,木米は死後火葬に付され,盛大な葬儀が行われたのだそう。
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