2023-10-04

読んだ本,「この世の喜びよ」(井戸川射子)


  「この世の喜びよ」(井戸川射子 講談社 2023)読了。タイトルに惹かれて読んでみた。芥川賞の講評で堀江敏幸が「言葉の一つ一つが粒だつような,すばらしい作品」と述べたという記事を読んだが,確かにそういう作品。タイトル通り,主人公である「あなた」の日常が,そして人生が肯定されることで読者は清々しい安堵感を得る。しかしそう一筋縄ではいかない気がする。

 主人公の職場はショッピングセンターの喪服売り場だ。彼女は喪服姿で勤務する。冒頭の休憩室でおすそ分けの柚子を喪服のポケットに潜り込ませる場面は最初,通夜の場面かと思った。「喪服売り場の店員になって良かったことは,仕事着で通勤でき,そのまま電車にでも乗れることだとあなたは思っている」(p.13)

 つまり,彼女にとって「平凡な」日常は喪服姿で呼吸をすることなのだ。読者はこのことを前提にしなければならないのではないか。彼女の日々は毎日,何かを葬り,何かを悼む。「若さ」という単純な言葉で心の内を語る場面が心に残る。ショッピングセンターで放課後を過ごす少女に向けた「あなた」の言葉。

 「私がどこかに,通ってきた至るところに,若さを取り落としてきたとあなたは思ってるんだろうけど,違うんだよ,若さは体の中にずっと,降り積もっていってるの,何かが重く重なってくるから,見えなくなって,とあなたは言う。若いってただ,懐かしいだけなの,思わず少女の手を握る。」(pp.83-84)


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