2024-10-30

2024年10月,東京東銀座,錦秋十月大歌舞伎

 歌舞伎座にでかけて錦秋十月大歌舞伎の夜の部を観劇。ぎりぎりで取れた席は3階の袖の席。半分くらいは見切れるかと思ったけど,意外とよく見えます。オペラグラスは必携ですが。お目当てはなんといっても「源氏物語 六条御息所の巻」。染五郎が光源氏,六条御息所は玉三郎という組み合わせ(年齢差は不問に!)。染五郎の光源氏は,新聞評で「時分の花」と書かれていた通り,まさに花であり光であり。とにかく二人が美しかったことは言わずもがな,舞台セットが幻想的で感動。


 

2024-10-27

読んだ本,「サンショウウオの四十九日」(朝比奈秋)


  すっかりラテンアメリカ文学モードに入っていたら,図書館に予約していた芥川賞受賞作の順番がきた。「サンショウウオの四十九日」(朝比奈秋 新潮社, 2024)を読了。朝比奈氏を読むのは初めて,ストーリーなど事前知識もなし,唯一知っているのはこの作家は医師だということ。

 読み始めてすぐに,その奇抜な身体性の設定に驚き,これからすごいものを読むのではないかと期待が高まったのだが。哲学的な思索が印象的なエピソードとともに読みやすい言葉で綴られていて,そればかりが読後の記憶に残る。

 そして、物語は今一つ盛り上がらないまま,終盤はちょっと肩すかしの印象。結合双生児の杏と瞬の刺激的な「物語」が読みたかった。ただ,「意識の死」についての考察のくだりは刺激的だ。「肉体を離れても意識はある。死んでも,意識は続く。死が主観的に体験できない客観的な事実で,本当に恐れるべきは肉体の死ではなく意識の死ならば,どういったことで意識は死を迎えるのだろうか。」(p.123)

2024-10-20

読んだ本,「百年の孤独」(G・ガルシア=マルケス)

 文庫化されて話題になっている「百年の孤独」。マルケスの他の多くの作品に影響していたり,それらの解説やあとがきを読んだりしてすっかり読んだ気になっていたけれど,未読のままだった。体調のすぐれない日が続き,この本を読まないままでは終わるまじ,と真剣に思うようになったというわけ。私が読んだのは新潮社の「ガルシア=マルケス全小説」シリーズの鼓直訳(2006)。美しい装丁の本。

 ペースをつかむまでは少し時間を要したが,この小説世界に一度はまると,文字通りどっぷりとはまって一気に読了。読後はしばし呆然となって,ただただすごいとしか言葉が浮かばない。

 マコンドの街の百年の歴史が,幻想と現実が溶け合って語られる。この不思議な街で起こる奇想天外というべき数々の出来事と,そして登場する男たち女たち。木村榮一の「ラテンアメリカ十大小説」(岩波新書 2011)では彼らのことを「途方もない人物たち」と指摘している。

 ここに何か感想めいたものを書いても,前述の書を始めラテンアメリカ文学の指南書からの受け売りになってしまうが,やはり衝撃を受けたのはラスト近くで語られる2つの出来事だ。1つははるか昔に亡くなったメルキアデスの残した羊皮紙が町もろとも吹き飛ばされていくこと。もう1つはアマランタ・ウルスラとアウレリャノの間に産まれたアウレリャノについて,「この百年,愛によって生を授かった者はこれが初めて」(p.467)という一節。物語はここで終わるけれど,読者は歴史とは何か,そして愛とは何かを考え続けなければならないのだ。
 蛇足ながら,「ラテンアメリカ十大小説」を読み返して,これも未読のコルタサル「石蹴り」も読まずば終わるまじ。次の一冊。

2024年10月,東京千駄ヶ谷,「天鼓 弄鼓之楽」



 体調がすぐれないまま,時間ばかりが過ぎてしまいます。暗いトンネルの中で行きつ戻りつしているような日々ですが,少しずつは前進しているよう。何か楽しみがなければ,と国立能楽堂の10月普及公演のチケットを予約して,楽しみに出かけました。

 晩夏のような陽ざしと気温でしたが,中庭には萩が開花していました。この日の番組は狂言が三宅右近シテの「舟渡聟」と,能は「天鼓 弄鼓之楽」。シテは梅若紀彰,ワキの勅使は福王和幸師。福王さんの美しい舞台を見ると沈んだ気分も吹っ飛びます!

 「天鼓」はたぶん初見です。素筋によれば「美しい音の出る鼓を持つ少年・天鼓は,帝の命に背き呂水に沈められます」とあり,となれば成仏できない魂が舞う哀しい話なのかと思いきや,これが正反対。弔いの管弦講に現れた天鼓の霊は,帝の御弔いによって成仏したことに深く感謝し,本当にありがたいと言って鼓を打ち,舞うのです。

 その舞楽はゆったりと始まり,次第に速まるテンポに乗って,少年らしい明るさに満ちています。老親との別れを嘆くというよりも,やがて輪廻転生してまた親子の縁を結ぶ日を鼓の音とともに楽しみに待つとでもいうのか,夜明けとともに消えていく姿は希望にも満ちて。