全身に疲労をまとった過日の夕刻,ふらふらと吸い寄せられるように図書館の外国文学のコーナーの一画,スペイン語圏文学の棚へと立ち寄った。訳者の名前に野谷文昭氏を探して,「愛しのグレンダ」(フリオ・コルタサル著,岩波書店 2008)を手に取る。短編集である。目次を見ると知らないタイトルばかり。パラパラとあとがきまでページをめくり,手が止まった。
収録されている最後の短編「メビウスの輪」の解説に,「ジャイプール」「天文台(ジャンタル・マンタル)」の文字を見つける。ラテンアメリカ文学を読んでインドにたどり着くのは初めての体験だ。コルタサルは1968年,当時オクタビオ・パスが大使として赴任していたインドを訪れたのだという。
実はこの夏,インドを訪れる予定で,ジャイプール訪問は行程の中でも一番楽しみにしている都市。広い図書館の,何万冊の蔵書の中から手にした1冊に,まさか念願の天文台の名前を見つけるなんて,これを奇蹟と呼ばずして何と呼ぼうか。
というわけで,疲れた脳ミソにはややハードル高めのコルタサルを借りてきて,しかし読み始めると一気に,現実と幻想の境界のない作家の描く世界へと惹きこまれて読了。
どの短編も魅力的だが,「ノートへの書付」はコルタサルの地下鉄への偏愛を示す面白い作品。彼は地下鉄の路線図のモンドリアンの絵のような幾何学的模様に惹かれるのだ,とインタビューで語ったこともあるらしい。
ある日の地下鉄乗降客数調査で,入った人数よりも出た人数が少ない。そこから「わたし」の調査が始まる。「わたし」は誰で「彼ら」は誰なのか。そもそも「彼ら」がそこに存在するとして,調査する「わたし」はどこにいるのか。そして「わたし」はある日こう呟く。「彼らはあそこにいて,この段落から彼らの物語が始まることなど知りもしない」(p.48から引用)
世界はすでに存在する物語で満ちている。「作家」とは「物語」とは「読者」とは。「小説を書く」とは「小説を読む」とは。大げさではなく,人の一生とはその答えを見つける旅のような気がしてくる。高速道路を走ったり,地下鉄に運ばれたりする,そんな旅。
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