「イザベルに ある曼荼羅」(アントニオ・タブッキ著 和田忠彦訳,河出書房新社 2015)を読了。「著者が遺した最後のミステリ」という帯の惹句に惹かれて手にとった。作者没後初めて世に出た未刊行小説ということ。
語り手の「私」=タデウシュはイザベルという女性の痕跡を訪ねて,時空を超えて無限の旅をする。ポルトガル,マカオ,スイス,ナポリ。おおいぬ座シリウスからやってきた死者である「私」が探すイザベルもまた黄泉の世界の住人である。
タデウシュとイザベルが「レクイエム」(1992)に登場した人物だということには訳者あとがきを読むまで気付かなかった。読後,書棚のタブッキを読み返してみることにした。何冊も並べているのに,内容は忘れてしまっているものばかりだ。「レクイエム」「インド夜想曲」などなど。
タブッキの小説世界そのものが色彩豊かな曼荼羅のようだ。「イザベルに」は9つの章のそれぞれ一つの円となり,イザベルの謎めいた生涯が鮮やかな曼荼羅のなかに再現されていく。どの円も深く魅力的だが,第五の円,イザベルの写真を撮った写真家ティアゴとタデウシュとのやり取りが私の中に鮮烈な印象を残し,何気ない日常にさざ波を起こす。
「誰かの言葉がふと浮かびましてね,写真とは死だ,二度と訪れない瞬間を捉えるからである,という。(略)でももし逆に,生だったとしたら?そこに自然に,揺るぎなくある生。一瞬の内に捉えられたそれは,皮肉な眼差しで我々をみつめてくる。なぜって,写真はそこでじっと動かないままなのに,我々は変化のなかに生きているからです。つまり写真は,音楽みたいに,我々には捉えられない瞬間を捉えているということです。我々がかつてそうであったもの,そうであったかもしれないもの,こうした瞬間にたいしてはどうすることもできない,だって我々よりそっちに道理があるのだから。」(p.97より引用)
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