2016-10-30

届いた写真集,「パリの記憶」(高田美)

  堀江敏幸の「仰向けの言葉」を読んで,どうしても欲しくなって探した写真集(京都書院,1995)が届いた。高田美は何と読むのだろう,というくらい初めて聞く写真家だった。乳母車を取り巻く修道女たちが「山高帽かクグロフの型のような黒い物体」に見えるという1枚の写真を見たかった。
  想像していた以上に,しんと美しい写真だ。とっさにジャコメッリのモノクロームが思い浮かぶ。だが,と敢えて言ってしまえば,堀江敏幸の文章を読んだ時以上の感慨はなく,頁を繰る作業はあくまで確認作業になってしまう。言葉は後からついてくる,と言った小説家の言葉が何度も頭をよぎる。

 先入観なく惹かれたのは,雨のパリを歩く「ほっつき犬」,揺れるカーテンから夜が忍び入る「夜の香り」。残念だったのは,写真のタイトルのフランス語に発見された誤植がずらっとたくさん,正誤表としてはさみこまれていたこと。写真集に正誤表はないよな,とひとりごちる。 

読んだ本,「善意と悪意の英文学史」(阿部公彦)

  某イベントで著者と東京大学出版会の編集者との対談を聴講する機会があり,興味をひかれて手にとり,時間をかけて読了。学術書の難解さはなく読みやすく書かれているものの,内容は深く,とても勉強になった。
  前述の対談で編集者がその重要性を語っていた帯の惹句がこの本の魅力を語りつくしている。「小説家って、けっこう人が悪いんですね。  嘘と謀略、善意と愛―語り手の「礼節」から、英語圏の作品を大胆に読み直す。」この「礼節」=politenessが本書を貫くキーワードになっている。

 とりわけ興味深く読んだ章のタイトルをいくつか。第6章 登場人物を気遣う―ナサニエル・ホーソーン『七破風の屋敷』(1851)。第9章 目を合わせない語り手―ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム! 』(1936)。第10章 冠婚葬祭小説の礼節―フランク・オコナー「花輪」(1955)、ウィリアム・トレヴァー「第三者」(1968)。第11章 無愛想の詩学―ウォレス・スティーヴンズ「岩」(1954)

 原典の引用も多く,是非読んでみようという気持ちになる。まずはオコナーの「花輪」からだろうか。初めて聞く名前だったスティーヴンズWallace Stevensの詩にもすこぶる惹かれた。「個別のものがたどる道」("The Course of a Particular")の引用(日本語訳)から部分を孫引きします。
 
 (略)木の葉が声をあげる…自分は身を引いてその声を聞くだけ/それはせわしない声 誰か他の人にかかわる声/そして自分はあらゆるものの一部だと言うにしても/葛藤がある 何か抵抗がある/一部であるというのは拒絶の振る舞い/今あるこの命を与える命のことを感じる/木の葉が声をあげる/それは神聖な注意の声ではない/ぷっとタバコの煙を吐くヒーローたちからのたなびく紫煙でも 人の声でもない/それは我が身を越えることのない木の葉の声(pp.234-235) 

2016-10-29

2016年10月,北陸,金沢市近世史料館,富山市佐藤記念美術館

  家族の見舞いに秋の北陸路へ。心浮き立つ旅程ではないのですが,空いた時間を利用して金沢市近世史料館を訪ねてみました。明治時代の建築「金沢煙草製造所」を利用した赤レンガの瀟洒な建物が,谷口吉郎・吉生親子共同設計という金沢玉川図書館と隣接しています。

  図書館は,壁面が緑色の鉄板でできた大胆で力強い建物ですが,赤レンガを生かした中庭から近世史料館へと自然につながり,とても気持ちのよい空間です。今回は図書館は利用しませんでしたが,時間のあるときにゆっくり本を読んでみたい。

 近世史料館では「秋季展 武家と鳥-鷹狩・鳥構場-」を見る。加賀藩前田家の鷹狩の様子が手に取るようにわかる構成で,古文書の読み下し文と解説が掲載された親切な図録が会場で配布されています。古地図の前で,馴染みの地名を探して時を過ごす。当たり前のように,現在の地形や名称がそのまま残っていて,街全体がタイムカプセルなんだな。ここは。

 金沢では古書「あうん堂」へも初めて立ち寄りました。こじんまりとしていますが,店主の趣味がよく伝わる素敵な古書店。買ってきた本についてはまた項を改めて。
 
 帰路は富山へ寄って,富山城址公園内の富山市佐藤記念美術館へ。特別展「敢木丁コレクション受贈記念展 ―知られざる東南アジアの陶器―」展が開催中で,ヴェトナム,クメール,タイの陶器のコレクションを見ました。すばらしいコレクションを見ていると,しばし心配事から解放されます。

 敢木丁(カムラテン)コレクションは,展覧会チラシによると「1800件に及ぶ日本有数の個人コレクション」とのことで,富山に一括寄贈されたのだそう。少し検索してみると,京都の北嵯峨に個人経営の博物館があったみたい。

 やきものに限らず,コレクションについて「質・量ともに素晴らしい」というのは常套句だけれど,個人が集めたことによる審美眼の「一貫性」みたいなものがはっきりと伝わってきて,ちょっと打ちのめされた感があるすばらしい展覧会。安南青花はたくさん見てきたつもりだったけれど,こんなに繊細は鳳凰文は初めて,という碗にも出会えて,眼福でした。

 凛とした秋の気配に満ちた庭園。

2016-10-28

2016年10月,横浜,首藤康之のダンス・DEDICATED 2016 "DEATH" 『ハムレット』

  家族が病に倒れ,慌ただしく日常と非日常を行ったり来たりしています。記録として残しておきたいことがいろいろあるのだけれど,ゆっくり頭の中を整理できない日々なので,簡単な忘備録として。
 10月1日,KAATに首藤康之のダンスを見に行きました。DEDICATED 2016 "DEATH"と銘打たれた公演の演目はハムレット。約75分,台詞はほぼなく,ダンスでシェークスピア戯曲を見せる舞台です。
 
 中村恩恵の演出がとても美しい。舞台は「ハムレット関連の展示をしている美術館」の場面で始まり,額縁は途中,躍動する小道具としても用いられます。ハムレットを演じる首藤康之はハムレットなのか,ハムレットを見る現代の青年なのか。そしてその舞台を見つめる観客は首藤康之の肉体を通して誰の人生を見ているのか。
 
 めまぐるしく場面は転換し(今回は群舞の場面もある),観客はハムレットのストーリーを追うことには違いないのだけれど,「生」と「死」の境界をその美しい肉体で軽々と超えてしまう首藤康之のダンスを見ることは,私にとって異界を体験することに他ならない。
 
 陶然と1時間強を過ごし,帰宅して1997年光琳社刊の写真集POSSESSIONを手にとり,長い時間を過ごします。撮影は操上和美。 DEDICATEDシリーズを撮影した新写真集も今年出版されています。

2016-10-09

2016年10月,東京恵比寿,東京都写真美術館TOP MUSEUMのリニューアル・「杉本博司展」

 
  東京都写真美術館がリニューアルオープンして,「杉本博司 ロスト・ヒューマン」展と「世界報道写真展 2016」の二つの展示をゆっくり見てきました。クローズしている間,恵比寿へはすっかり足が遠のいてしまっていたけれど,これでまたいつでも写美に行けると思うととてもうれしい。リニューアルして,呼称もTOP MUSEUMに変わったらしい。エントランスが劇的(!)に変わっていたけれど,駅側からのアプローチの壁面のキャパや植田正治のプリントはそのままでほっとします。
  「杉本博司 ロスト・ヒューマン」展は2階と3階を使った大規模な展示。3階は〈今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない〉の展示です。この魅力的なタイトルの謎解きは2階の〈廃墟劇場〉の解説にあります。ルキノ・ヴィスコンティの「異邦人」の冒頭「今日,ママンが死んだ、もしかすると昨日かもしれない」から生まれたのだそう。
 
  〈今日世界は死んだ...〉は文明が終わる33のストーリーが,自身の写真や蒐集した古美術等で構成されたインスタレーションで展示されているもの。フロアがそれぞれ独立した33の小部屋で仕切られているので,一つ一つをじっくり読んで見ていくのには集中力が必要。途中から,「代筆者リスト」でストーリーを代筆した人名を確認しながら,お,と思ったパート以外はざっと流してしまった。
 
 平野啓一郎代筆の「人ゲノム解説者」のパートを面白く見ました。抽象的な現代美術に向かい合うときは,これは何だろうと考えるときに,「見ている私」を強烈に意識するわけだけど,こういう「具体的な仮想ストーリー」を見るときにはかなり混乱する。
 
 そこにあるものに対しての知識が後付の理屈になってしまって,作者の意図を直截に受け取ることが難しいからかもしれません。今回は代筆者への私的な思い入れも相まって,「杉本博司の作品」の価値を,正確に(正確さが求めれているのかどうかはさておき)楽しむことは私にはできなかった。
 
 2階の〈廃墟劇場〉は〈劇場〉シリーズの既視感にあふれ,〈仏の海〉も,以前六本木で見たなあ,という感慨が湧いてきます。安心して見ることができるというべきか。
 
 やっぱり写真を見るのは面白いなあ,という幼稚な感想が頭をよぎるのと同時に,写真美術館はなぜ杉本博司をリニューアル展に選んだのだろう,というこれまた素朴な疑問もぐるぐる頭の中にうずまいたのでした。

2016-10-08

2016年9月,いくつかの展覧会の覚書

 前回から時間が空いてしまいました。季節の変わり目に体調を崩しがちなのは,老いへの確実な接近に他ならないのでしょう。確実に減っていく未来への展望をあれこれと考えて過ごしていました。
  そんな時期に見た展覧会のうち,印象に残ったものをいくつか忘備録として。まずはワタリウムで前半の展示が開催中のナム・ジュン・パイク展。1956年から1989年までの仕事を振り返る展示(後半の1990-2020は10月15日から)。フルクサスとの出会いからを展観するRoom 1で,ああ,そうだったのかという驚きに襲われます。

 ここ数年,ミュンヘンでボイスやケージ(竜安寺のドローイングがすばらしかった!)を見たり,大阪国立国際美術館で「塩見允枝子とフルクサス」展を見たり,若江漢字氏の著作を読んだり,といういくつかの経験の断片が,パイクの作品を介してつながっていくスリリングな時間を体験しました。

 ナム・ジュン・パイクの初期作品そのものは,「色褪せない古臭い前衛」とでも言えそう。ブラウン管のテレビから植物が伸びている作品などは,この展覧会の直前に銀座で見たミシェル・ブラジー展で見たゲーム機と植栽の作品への影響など,現代への直截的な介入にも見えてきました。

 ミシェル・ブラジー展は銀座メゾンエルメスフォーラムにて開催中です。チラシの写真のピンクのトーンや文字のフォントが,ナム・ジュン・パイク展のチラシと奇妙に呼応していて楽しい。
  他に,横浜ユーラシア文化館で「エジプトのイスラーム都市を掘る」展,東京大学総合研究博物館で「UMUTオープンラボ 太陽系から人類へ」展を。