多和田葉子の新刊「百年の散歩」(新潮社)を読了。ただただ面白かった,としか言いようがない。夢中で頁をめくり,ベルリンの街を彷徨い,そして思いもかけないラストには言葉を失った。
小説家自身と思しき「わたし」が「あの人」と待ち合わせて会うためにベルリンの街を歩き回る。それぞれの章が実際の街の通りの名前になっている。いつもの多和田葉子の小説世界と同じように,言葉の変奏が世界を変容させていく。読者はその捩れた世界を浮遊するのだ。作家の意のままに。
そもそも,「わたし」と「あの人」は女性と男性と勝手に思い込んで読み進めていくと,いつの間にかそれすら曖昧模糊としてくる。「わたし」は読者である私なのかもしれないし,それならば「あの人」は作家自身なのかもしれない。私は多和田葉子という作家とベルリンの通りの一つで待ち合わせていたのではなかったか…。読んでいるうちに,「わたし」は私のことをお見通しなのではないかと思えてくる。
印象的な場面がたくさんあって,記憶に留めておきたいものをいくつか引用してみる。私の蘭フェチ(?)が見破られている場面。
『ガラスの壁を覆いつくすように紫色の蘭が飾ってあった。全く同じ色とかたちの蘭だけがこれだけたくさんあると,ぞっとする。同じ顔のクローンが何十人も並んでいるある映画の一場面を思い出した。一つとして同じ色とかたちの見当たらない店内だから余計不気味に見えるのかもしれない。紫色の蝶が身をよじって悶えているようにも見える蘭。プラスチックでできているのかなと思って近づいていくと,ある距離まで来たところで,ふいに死にゆくものの湿り気が感じられ,本物だということがわかった。』
(p.36「マルティン・ルター通り」より)
私が好きな画家の作品にPIETAというタイトルのものがあることが見破られている場面。
『マリアはイエスの死には責任がない。十字架からおろされたイエスの死体を無限無条件の慈悲で包み込むだけだ。マリアになることでコルヴィッツはやっと自分自身を責めるのをやめることができた。そのかわり,それはもう一人の人間の一回きりの仕草ではなく,たとえば「ピエタ」という一言でかたづけられてしまうかもしれない。』
(p.193「コルヴィッツ通り」より)
そして,何よりも一人で町を歩き回る私の姿を見破られている場面。
『町は官能の遊園地,革命の練習舞台,孤独を食べるレストラン,言葉の作業場。未来みたいな町の光景に囲まれていれば,未来はすぐに手に入るものだと思いこんでしまう。人を激しく待つ時は特にそうなのだ。待ち合わせをしてうまく会えたとしても,それからもちょろちょろと流れ続けていく時間を忍耐強く生きなければならないことなど念頭にない。今すぐ,ごっそりと全部欲しいのだ。傷つくことなど全く恐れていない。身体ごと飛びついていく。はねつけられたら,さっと離れていけばいい。傷つく必要なんてない。何度ふられても町には次の幸せがそこら中にころがっているのだから。』
(p.234「マヤコフスキーリング」より)