2017-08-25

2017年8月,京都(2),上賀茂神社・高麗美術館

 大好きな高麗美術館からすぐの距離なのに,今まで一度も訪れたことがなかった上賀茂神社。加茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)という響きが素敵だ。夏の特別公開で本殿と権殿に参拝できるというので足を延ばしてみました。
 夏の暑い時期は神馬は避暑中でした。葵祭や賀茂競馬などを楽しむなら5月ですね。神山を象った立砂が神秘的な美しさをたたえていて,思わず息を呑みます。陰と陽の一対ということ。直会殿でお祓いを受けてから本殿に参拝し,ここぞとばかり(!)ありとあらゆる願い事をしてきました。
 
 その足で高麗美術館へ向かい,今年の夏は「복(福)を運ぶ 朝鮮王朝のとりたち」展を楽しみました。ソウルの景福宮で見た美しい鳥はカササギ。ハングルで「까치」ですね。 実はこの5~6月に韓国語入門講座を受講したのです!秋には初級を受講できるとよいのだけれど。老いた脳みそに,新しい言語の学習はかなりキビシイです。。

2017-08-20

2017年8月,京都(1),細見美術館「古裂に宿る技と美」展・下鴨神社古書市

  結構長い夏休みを取って,京都に1泊して金沢へ向かうことにしました。夏の京都は毎年暑くて,もうやめとこ。と思いながらも毎年吸い寄せられてしまいます。
 まずは初めての細見美術館で「布の道標 古裂に宿る技と美」展を。開館時はきっと斬新でおしゃれな美術館だったのだろうけれど,やや古色蒼然とした雰囲気が残念な建物。使用していない什器に赤い布をかけて放置していたり,開館時間中の展示室をモップを振り回して床掃除するのはどうなんだろう。
 
 テンションが下がったものの,ぎおん齋藤のコレクションで構成された展示はとても面白くて夢中で見てしまう。江戸桃山の古裂はもちろんのこと,インド更紗やすばらしい中国大陸の遺物には興奮です。すっかりテンションも回復(単純)。特に西域の文様には惹かれます。8世紀ソグド族の綿錦,遺跡出土の2~3世紀の錦裂などなど。
 
 界隈の古美術店などもひやかしながら,次の目的は毎夏恒例の下鴨神社古書市へ。蒸し暑さにへとへとになりながらも,テントを巡る巡る。しかし。積ん読で溢れかえる書棚を思い浮かべて,今年は持ち帰れるだけにしようと固く心に決めて,厳選することに。しかし。悩む悩む。結局,2014年の龍谷ミュージアム「チベットの仏教世界」展の図録と,クンデラの「無知」(集英社),「韓国の石仏」(金両基著 淡交社)の3冊を購入。チベット展図録は,このあと富山の福光美術館でチベット仏画展を見たいと思い,その予習用に。
 糺の森のバス停から下鴨神社に向かう小路にしゃれた骨董店があり,中国四川省の麻布を購入。日本で座布団に仕立てられていたものだそう。すてきな店主の女性と,昨年の古書市で買ったINDIGO PRINTS OF CHINAの話などして楽しい時間を過ごしました。これだから夏の京都はやめられないんだな。

2017-08-19

2017年8月,金沢,「イメージの力」展

 石川県立歴史博物館で「イメージの力 The Power of Images」が開催されています。ポスターを見てあれ?と思ったら,これは2014年に国立新美術館で開催された民博のコレクション展がその後全国を巡回しているものだということ。3年もかけて巡回するんだ。という驚き。

 2014年の開催時に行けなかったので足を運んでみました。民博の膨大なコレクションのエッセンスを楽しめるので,濃密な,という形容詞がぴったりの時間を過ごせます。民博では地域展示ですが,この展覧会は「イメージの力」というキーワードで全体を4章に章立てした通文化の展示になっていて,民族資料を美術として提示しています。
  そういう展覧会を歴史博物館で開催するというのは何だか元の木阿弥じゃん,という気がしないでもないんだけど,能登の来訪神の仮面の展示などもあって,常設展示との関連も楽しめます。カメラを忘れたので携帯で撮ってみました。スマホは持ってないし,携帯も普段ほとんど使わない生活なのでこんな解像度のしか撮り方がわからなかった。。恥ずかしいけど,記録として。

 常設展示室の「祭礼体感シアター」が大好きで,ここ半年くらいで一体何回見ただろう。仮面をまとった,あるいは裸身の青年たちが火の中で風の中で,舞い踊る!

 お隣の石川県立美術館では「これぞ暁斎!」展を。これもBunkamuraの展覧会の巡回展です。若干の時差はあれ,メジャーな展覧会は東京にいなくても楽しめるんだなと実感。不思議な魅力を持つ鴉たち。

読んだ本,「カタストロフマニア」(島田雅彦)

  この夏の読書の忘備として。久しぶりの島田雅彦。文芸誌で連載中は「黎明期の母」というタイトルだったのが,単行本のタイトルは「カタストロフマニア」とはこれいかに。カバー絵もぴんとこなくて,あまり期待せずに読み始めたのだが,一気に読み終えて久しぶりの島田ワールドに大満足。 

 雅彦ファンは同志に合図を送りたくなるので(!)通勤電車ではカバーをかけずにバッグから取り出して持ち歩いていた。気付いてくれた人がいただろうか。ただ一つ,ミロクが地下鉄で移動する場面は微妙。天敵(?)の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を一瞬思い浮かべてしまった。
  『漁師や農民にも,サラリーマンや学生にも,ホームレスやアーティストにも,病人にもギャンブラーにも,日課というものがあり,一年の暦がある。天候や気分に左右されることもあるにせよ,一喜一憂しながら,前進と後退,勝利と敗北,幸運と不運を同じだけ重ねる。この先自分はどうすればいいかを考えることさえもルーチンの中に入っていた。だが,ひとたびこのルーチンを奪われると,人はとたんに駄目になる。退化の道をまっしぐらに辿り始める。 
―このまま黄昏ちゃっていいのか,人類。
 ミロクはふとそんな独り言を呟きながら,窓の外を見る。朝日を受けた海面が鱗状に光っていた。地球が自転する限り,黄昏と黎明は交互に巡ってくる。誰が生存の適者で,誰が淘汰されるかは結果論でしかない。人は特定の目的のために未来に向かっているつもりでいるが,その目的も多様で,ある人の目的をほかの人が妨害したりするので,未来は誰の思い通りにもならない。…未来は誰にも予測できない意外な方向へと転がってゆくのである。』(pp.239-240より引用)

2017-08-06

2017年6月に出かけた展覧会,ソウル・ライター展など

 忘却の彼方へ過ぎ去る前に,忘備録として。
  Bunkamuraでは「写真家 ソウル・ライター展」を見ました。会期終了日,なんと入口には長蛇の列。写真展でこんなことが!とびっくりしましたが,若い人の間で大変な話題の展覧会だったようです。SNSで「あなたもソウル・ライター」みたいな企画をやっていて,ソウル・ライター風の写真を撮って投稿するのだとか。

 それはどうなんだろうと思いながらもこれだけ話題なんだから見に行かなくちゃ,と思って出かけて,確かに面白い写真がたくさんありました。「カラー写真のパイオニア」ということだけれど,モノクロもよかったな。シュタイデル社から2006年に出た写真集が「再発見」のきっかけだったという。知らない写真家がまだまだたくさんいるなあというのが一番の感想。

 横浜美術館では「ファッションとアート 麗しき東西交流展」を見ました。19世紀後半から20世紀前半のファッションと美術を,「東西交流」をキーワードに紹介する展覧会。横浜が舞台だけに,異国という他者への驚きと憧憬が臨場感をもって迫ってくる楽しさがあり,わくわく。西洋にとっても日本は「麗しき他者」であったのだと再確認。

 常設展「自然を映す」も面白かった。久しぶりに横浜美術館で菅木志雄を見ることができました。写真展示室では特集展示「写真と絵画ーピクトリアリズムの興隆」。梅阪鶯里など。

 他に,パナソニック汐留ミュージアムで「日本,家の列島ー フランス人建築家が驚くニッポンの住宅デザイン ー」展を。住宅写真と模型を見せる工夫が面白い展覧会。住宅だけなので,ちょっと内向きな展覧会という印象だったかもしれない。

2017年8月,東京上野,タイ展

  日本はもはや亜熱帯なのだろうかという 暑い日が続いても,ああ,どこかアジアの国に旅したいという思いは消し難いもの。家族の事情でしばらくは海外旅行は諦めムードなのですが,気分だけでも味わいに上野へ向かいます。東京国立博物館で「タイ 仏の国の輝き」展が開催されています。

 今からウン十年も前の話,私の初めての海外旅行の行先はタイでした。5泊くらいしたのだったか,当時はパタヤでのリゾートの方が主目的で,バンコク市内の仏教寺院観光はおまけみたいな感覚だったのが今では悔やまれる。。三島の「暁の寺」も未読だったから,エメラルド寺院も有難みがわからなかったな。

 と,すっかり年寄りの感慨(!)にふけりながら展示室をゆっくりまわると,「エキゾチック」をそのまま体現したような会場の構成に興奮です。歩を進める「ウォーキングブッダ」なんて聞いたことがなかった。インドや中国・朝鮮の仏様とは違う不思議な魅力です。
展覧会の目玉はラーマ2世王作の大仏殿の大扉で,こちらは撮影可能。繊細な立体彫刻の中に迦陵頻伽を発見したのですが,最近コンデジしか持ち歩いていないのでピンボケで残念。背面も面白い。

 そして日本刀を模して造られたという「金板装拵刀」もとても面白く見ました。17世紀の日本人兵の活躍によって,日本刀が最上級の刀剣とされてきたということ。そういえば,タイの王様というイメージにはこういう刀がぴったり(「王様と私」とか)。

 ところで東博では9月に「フランス人間国宝展」というのが開催されるそう。チラシを見ると,何だかすごく東洋的な作品が多くてびっくり。窯変天目はともかく,壁紙の文様なども。楽しみな展覧会です。


2017-08-04

読んだ本,「百年の散歩」(多和田葉子)

  多和田葉子の新刊「百年の散歩」(新潮社)を読了。ただただ面白かった,としか言いようがない。夢中で頁をめくり,ベルリンの街を彷徨い,そして思いもかけないラストには言葉を失った。
小説家自身と思しき「わたし」が「あの人」と待ち合わせて会うためにベルリンの街を歩き回る。それぞれの章が実際の街の通りの名前になっている。いつもの多和田葉子の小説世界と同じように,言葉の変奏が世界を変容させていく。読者はその捩れた世界を浮遊するのだ。作家の意のままに。

 そもそも,「わたし」と「あの人」は女性と男性と勝手に思い込んで読み進めていくと,いつの間にかそれすら曖昧模糊としてくる。「わたし」は読者である私なのかもしれないし,それならば「あの人」は作家自身なのかもしれない。私は多和田葉子という作家とベルリンの通りの一つで待ち合わせていたのではなかったか…。読んでいるうちに,「わたし」は私のことをお見通しなのではないかと思えてくる。

 印象的な場面がたくさんあって,記憶に留めておきたいものをいくつか引用してみる。私の蘭フェチ(?)が見破られている場面。

『ガラスの壁を覆いつくすように紫色の蘭が飾ってあった。全く同じ色とかたちの蘭だけがこれだけたくさんあると,ぞっとする。同じ顔のクローンが何十人も並んでいるある映画の一場面を思い出した。一つとして同じ色とかたちの見当たらない店内だから余計不気味に見えるのかもしれない。紫色の蝶が身をよじって悶えているようにも見える蘭。プラスチックでできているのかなと思って近づいていくと,ある距離まで来たところで,ふいに死にゆくものの湿り気が感じられ,本物だということがわかった。』
(p.36「マルティン・ルター通り」より)

 私が好きな画家の作品にPIETAというタイトルのものがあることが見破られている場面。

『マリアはイエスの死には責任がない。十字架からおろされたイエスの死体を無限無条件の慈悲で包み込むだけだ。マリアになることでコルヴィッツはやっと自分自身を責めるのをやめることができた。そのかわり,それはもう一人の人間の一回きりの仕草ではなく,たとえば「ピエタ」という一言でかたづけられてしまうかもしれない。』
(p.193「コルヴィッツ通り」より)

 そして,何よりも一人で町を歩き回る私の姿を見破られている場面。

『町は官能の遊園地,革命の練習舞台,孤独を食べるレストラン,言葉の作業場。未来みたいな町の光景に囲まれていれば,未来はすぐに手に入るものだと思いこんでしまう。人を激しく待つ時は特にそうなのだ。待ち合わせをしてうまく会えたとしても,それからもちょろちょろと流れ続けていく時間を忍耐強く生きなければならないことなど念頭にない。今すぐ,ごっそりと全部欲しいのだ。傷つくことなど全く恐れていない。身体ごと飛びついていく。はねつけられたら,さっと離れていけばいい。傷つく必要なんてない。何度ふられても町には次の幸せがそこら中にころがっているのだから。』
(p.234「マヤコフスキーリング」より)

古いもの,フェルメールで買った刺繍布

 
  金沢のアンティークフェルメールで,こんなきれいな刺繍布を見つけました。15センチ四方くらいで,コースターにしては大きめだし,いわゆるドイリーなのかも。少しずつ柄の違うものが数枚あって,かなり迷ってこの1枚を選びました。シンプルな額に入れて寝室の壁に飾っています。世界にはささやかだけど美しいものがたくさんあって,それを見つける眼を持つ人がいて,そしてその人の手から受け取る私がいる。