上野でJ.W.Waterhouseや「レディ・ジェーン・グレイの処刑」を見た直後ということもあり,ラスキン文庫が主催する講演会「漱石とラファエル前派」展を楽しく聴講してきました。会場は中央大学駿河台校舎です。ラスキン文庫そのものは銀座のミキモトビルに入っているらしい。
「夏目漱石の美術世界」展を見てからずっと「漱石はどの『シャロットの女』を見たのか」が疑問だったわけですが,講師の一人が芸大美術館の古田亮氏ということ。著作を探してみると2014年に岩波現代全書から「特講 漱石の美術世界」が出版されています。第1講によれば,2013年の上記展覧会の図録所収の論文などもベースになっているようで,図録を買いそびれてしまった私には非常にありがたい1冊。
そして,結論から言えば上記の疑問もこの本の丁寧な解説で納得。そう,確証はないのです。しかし,漱石の脳内美術館に所蔵され,のちに文学作品へと引用された絵画なのだから,きっとこれに違いないだろう,という推論は成り立つわけ。そういう理論でいけば,漱石が「薤露行」で描いたシャロットの女のイメージソースは,きっと展示されていたWaterhouseのリーズ美術館所蔵の作品だろうといえるわけです。
すっきりした気分で講演を聴講しました。3人の講師のそれぞれの内容が興味深く,河村錠一郎氏の漱石がロンドンに滞在していた時期の美術館博物館の変革期の説明も面白かった。なるほど,ミレーのオフィーリアを漱石はTateではなくNational Galleryで見ていたわけなんだ。DulwichのPicture Galleryにも行ってみたい。
それぞれ独自のペースを死守(?)するものだから,かなり予定の時間をオーバー。そして最後に高階秀爾氏がコメンテーターとして参加されて,さすがの手腕で会をきっちりまとめていらっしゃいました。
<戯曲ハムレットにはオフィーリアの「死の場面」はない。「オフィーリアは死んだ」という言葉はある。ミレーの描いたオフィーリアの死のイメージが,漱石の頭の中に収納された><漱石が好む「水」「銀」のイメージからつながる「月」のイメージ。漱石のメランコリックな好みがラファエル前派とつながる>などなど。書き散らしたメモより。
2017-11-26
2017-11-23
2017年11月,埼玉北浦和,「ディエゴ・リベラの時代」展
上野から鶯谷の書道博物館へ廻って「あの人,こんな字!」展(中国編)を見て,この秋はすっかり中国美術を堪能だな,と思いつつ,まだ昼前だった(「怖い絵」展の行列のために早朝から活動してた)ので,そのまま京浜東北線に飛び乗って北浦和へ向かいました。
開館35周年記念「ディエゴ・リベラの時代」展が開催中です。埼玉県とメキシコ州は姉妹都市なのだそう。広報誌のzocalo「ソカロ」はメキシコシティーの広場を指していたとは初めて知りました。
ディエゴ・リベラの展覧会と言っても,壁画を持ってくるわけにはいかないのだし,写真や下絵が中心の展覧会かと思いきや,若いころの作品やパリのキュビズム時代,その後の壁画以外の作品などなど盛り沢山。そして「…の時代」というだけに,同時代のメキシコの様々な美術が取り上げられていて大充実の内容でした。
リベラの「ひまわりと裸婦」や「とうもろこしをひく女」はその質感と迫力に圧倒され,フリーダ・カーロの哀切な小品の強烈なオーラにも釘付けに。モドッティの壁画写真も面白かったし,記憶に新しいアルバレス・ブラボの写真をまとめて見ることができたのも望外の幸せ。
静かな北浦和公園には秋の日差しが降り注ぎ,幼い子らの歓声があふれていました。
2017年11月,東京上野,「怖い絵」展
展覧会を見るために何時間も待って,いざ会場に入ったら大混雑というのはもはや修行みたいなものですね。根がアマノジャクなので,「〇時間待ち」という評判の展覧会は大体パスしてしまうし,入っても後列からすすーっと流してしまうのが常なのですが,今回だけは頑張った。
上野の森美術館で開催中の「怖い絵」展にJ. W. Waterhouseの「オデュッセウスに杯を差し出すキルケー」を見に行ってきました。展覧会自体はドラローシュの「レディ・ジェーン・グレイの処刑」が目玉です。ロンドンで見たはずだけど,まったく記憶にないのだからピンと来なかったということなんだろう。
Waterhouseはそうはいきません!バルガス・リョサの「悪い娘の悪戯」(作品社 2011)を読んだとき,その小説世界を視覚化したようなこの絵を採用した表紙カバーにやられてしまって,いつか絶対,実物を見たいと思っていたのです。しかし。所蔵のGallery Oldhamはマンチェスターの近郊のようで,そんな遠くに行くことを考えると,上野で2~3時間行列する方がよっぽど現実的。
実際は1時間弱の行列で中に入り,遂に人込みの中で見ることができました。おお,これが。画家Waterhouseのキルケーはリョサの読者にとってのニーニャ・マラであって,濃い色の眼,厚い唇。壮絶な愛の物語が蘇ってきて立ち去りがたい。
Tateの「シャロットの女」の大画面を想像していたので,意外と小さいな,という印象。「漱石の美術世界」展で見た「人魚」や「シャロットの女」(リーズ美術館蔵)と並ぶと壮観だろうなあ。日本でWaterhouse展が開催される日を夢見つつ。
蛇足ながら,「怖い絵」展はルドンやホガースの版画も量としては多く,「どう,怖いでしょう」と言わんばかりの展示には「はあ,何で?」と答えたくなりました。アマノジャクなので。
2017-11-12
読んだ本,「充たされざる者」「女たちの遠い夏」(カズオ・イシグロ)
カズオ・イシグロを2冊,読了。「読んだ本」とはせずに「読み返した本」と書きそうになったが,「充たされざるもの」(古賀林幸訳 早川epi文庫 2007)はもう何年も書棚でほこりをかぶっていた未読の本。「女たちの遠い夏」(小野寺健訳 ちくま文庫 1994)はたぶん一読したけれど,はるか忘却の彼方,という1冊。
「女たちの遠い夏」は原題がA Pale View of Hillsで,のちに早川から再販されたときには「遠い山なみの光」と改題されている。そういう後付けの知識は読書には不要だけれど,原題に忠実な「遠い…」はいかにも地味な印象,「女たちの…」の方がインパクトがあると,当時の訳者や編集者が考えたのだろうな,と邪推もしたくなる。のちにこのイギリス在住の作家がノーベル文学賞を受賞することになるなどと,出版当時に想像した人が一人でもいただろうか。
悦子というイギリスに住む日本人の女性が自分の過去を回想するストーリーだが,近くに住む佐知子という不思議な女性との交流,複雑な家族の関係,娘の自殺など,不穏な出来事が端正な文章と破綻のない見事な構成で語られる。読み進むうち,これが英語で書かれた小説の日本語訳であることを忘れてしまいそうになる。悦子も佐知子も原文ではEtsukoでありSachikoであったはずなのに。
「充たされざる者」The Unconsoledは文庫本で939頁の厚さ。愛読者と言いながら,未読だったこの本を読む気になったのは,やはりノーベル文学賞がきっかけだったわけだから,なんとなく後ろめたい気はする(誰に対してというわけでもないが)。
「木曜の夕べ」に出演するピアニストのライダーが,ある町を右往左往する。それがすべて。文庫カバーの惹句には「実験的手法を駆使し,悪夢のような不条理を紡ぐ問題作」とある。確かに,この本を抱えるようにして読んでいた間,何度も悪夢を見てしまった。しかし,頁を繰るのももどかしく,一気呵成に読み終えて,ああ面白かった!という感想しか浮かばない。
読者はどこに立っているのか。どこか高みからライダーと町の人たちの悲喜劇を俯瞰しているような,そう,この不条理の世界を神の視点から見ているような錯覚を覚えて千ページに及ばんとする読書の迷宮を彷徨うのだ。
「なあ。いつも最悪に思えるのは,それが起きているときさ。だが過ぎ去ってみれば,何であれ思っていたほど悪くはないものだ。元気を出しなさい」(p.934)
2017-11-11
2017年11月,東京六本木,「典雅と奇想 明末清初の中国名画展」
六本木の泉屋博古館分館で「典雅と奇想 明末清初の中国名画」展が12月10日まで開催されています。(展覧会詳細はこちら)。先週のこと,夕暮れ時に地下鉄駅から屋外エスカレーターで泉屋博古館分館へ向かいました。少しずつ,日常が下界へと遠ざかっていく感覚を楽しみながら。
中国の書画は理屈を超えて惹かれます。東京国立博物館に行くと必ず東洋館の中国書画展示に足を運ぶし,数年前に台北に行ったときには2日間,国立故宮博物院に通って至福の時間を過ごしたりしました。
ただ,「中国書画を見る」と一言で言っても,あまりにも広大な海に小舟で漕ぎ出すがごとし。「ああ,いいなあ」とか「これ好き」と感じるのがせいいっぱいで,例えば北宋・南宋から明清の絵画への流れとか,文人画とは,とか基本的な知識はいくら本を読んで頭に詰め込んでも,「見る」という身体的な感覚としては無力感を味わうことが多いのが常なのでした。
でも,この展覧会は鑑賞者に対して素晴らしい導きを用意してくれていて,私にとっては中国絵画を心から楽しむひと時を過ごしました。その導きとは「倣古」「新奇」「我法」の3つのキーワード。充実した図録の「明末清初の名画 鑑賞のためのキーワード」(板倉聖哲東洋文化研究所教授著)に詳しいですが,目から鱗が落ちるとはこのこと。
この日は板倉氏の解説を聞きながら会場を回ることができて,感激でした。ここに挙げたい作品がありすぎで途方にくれますが,私の一番は会場冒頭の徐渭の「花卉雑画巻」(1575・1591)。東博と泉屋博古館の所蔵の2巻が同時に展覧されるのは板倉氏の夢だったとか。
美術館より特別に写真撮影の許可をいただいています。 |
激しい筆致に圧倒されていると,徐渭は狂気の人で妻を殺したという逸話が語られ,思わず足がすくみます。知らなければ,花の美しさに目を奪われて終わりだったかもしれない。富貴の象徴である牡丹は自身の「卑賎の身」と対比して描かれている!(図録p.12)
美術館より特別に写真撮影の許可をいただいています。 |
石濤 「黄山図巻」, 米万鍾 「柱石図」などいつまでも記憶に残る作品群と,個人的に思い入れがある八大山人の「安晩帖」などなど,時間がいくらあっても足りない展覧会でした。画帖の画面展示替えも多いので,何度も足を運びたくなります。充実の図録は東京美術から一般書として出版されています。
そしてこの展覧会は静嘉堂文庫の「あこがれの明清絵画 日本が愛した中国絵画の名品たち」という展覧会と連携しているとのこと。異なった視点から明清絵画の魅力を楽しめるとのことで,こちらも楽しみです。この秋は楽しみがつきない!
2017年11月,東京日本橋・上野毛,「驚異の超絶技巧」展・「光彩の巧み」展
日本と中国の工芸の,二つの展覧会を見てきました。一つは「驚異の超絶技巧! 明治工芸から現代アートへ」展を日本橋の三井記念美術館で。なぜかチラシには山口晃画伯が登場して,ユーモアたっぷりのコメントをいつものタッチで描いています。
柴田是真の漆工に「遊びは本気で」とコメントしてるのが至言ですね。並河康之の七宝は,庭園美術館の展覧会をまあ,いいかとパスしてしまったのを後悔するような美しさ。『紫陽花図花瓶』には「目でなで回したい」というコメントが。こちらも全くその通り!という何だか山口礼賛の展覧会になってしまったけど,鑑賞の手引きをしてもらったみたいでとても楽しいひと時でした。印象としては影響を受けた現代アートの超絶感の方が強烈だったかも。
で、七宝つながりで上野毛の五島美術館で「光彩の巧み」展を堪能。こちらはちょっと襟を正す感じの展示です。人の手が「もの」に力を与え,その力は人の領域を超えてもはや神へと近づく。そしてその「もの」を所有することで人は権威をまとう。そして時を経て,人(=私)はその美術館におさまった神秘を目にして,言葉にならない「美」を見出す。
溜息しか出てこない美を前にして,日々の煩雑な思いを忘れます。ところで,ああ,七宝っていいなあと思いながら,そういえば20年くらい前に初めてシンガポールに行ったとき,ふらりと寄った古道具屋で小さな瓶を買ったのを思い出しました。書棚の片隅に眠っていた私の七宝。まあ,お土産品だけど,よく眺めるとそれなりに美しい。美術館の前の石畳。
柴田是真の漆工に「遊びは本気で」とコメントしてるのが至言ですね。並河康之の七宝は,庭園美術館の展覧会をまあ,いいかとパスしてしまったのを後悔するような美しさ。『紫陽花図花瓶』には「目でなで回したい」というコメントが。こちらも全くその通り!という何だか山口礼賛の展覧会になってしまったけど,鑑賞の手引きをしてもらったみたいでとても楽しいひと時でした。印象としては影響を受けた現代アートの超絶感の方が強烈だったかも。
で、七宝つながりで上野毛の五島美術館で「光彩の巧み」展を堪能。こちらはちょっと襟を正す感じの展示です。人の手が「もの」に力を与え,その力は人の領域を超えてもはや神へと近づく。そしてその「もの」を所有することで人は権威をまとう。そして時を経て,人(=私)はその美術館におさまった神秘を目にして,言葉にならない「美」を見出す。
溜息しか出てこない美を前にして,日々の煩雑な思いを忘れます。ところで,ああ,七宝っていいなあと思いながら,そういえば20年くらい前に初めてシンガポールに行ったとき,ふらりと寄った古道具屋で小さな瓶を買ったのを思い出しました。書棚の片隅に眠っていた私の七宝。まあ,お土産品だけど,よく眺めるとそれなりに美しい。美術館の前の石畳。
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