この2冊のタイトルでピンと来たら,かなりの雅彦ファンと言えるかも。先週のこと,日本文学振興会が主催する「人生に,文学を。」という連続講座を聴講してきた。講師は島田雅彦氏。講演のタイトルは「歩け,歩き続けよ」。場所は駒場の日本近代文学館。空気が冴え,寒さもまた一興の絶好の散歩日和だった。
講義のタイトル通り,人類は直立歩行によって脳が発達したというところから真面目に始まる。好奇心というものを得たホモサピエンスは,「『これは何だ』という疑問を持ち,『この花はきれいだ』などとグレたことを言うようになった」というあたりから島田読者のハートが騒ぎ出す。
そして,人間のほっつき歩く習性・本能をテーマに,話はオデュッセイアからドストエフスキーやカントへと飛び,課題図書であるルソーの「孤独な散歩者の夢想」について。青柳瑞穂訳の新潮文庫は200頁足らずの薄さだが,それほど読みやすい内容ではない。しかし。島田氏はこう言うのである。「社会から満場一致で締め出されたオヤジのグチと気付きのメモであり,私小説」。
課題図書というから必死で眠気と戦いながら読み通したのに,とグレたくもなる。真面目に付箋をつけた個所も後で読み返すとオヤジのグチかと思うと少々むなしい。そんな一部分から。
「僕は長い一生の有為転変の中にあって気づいたのだが,最も甘美な享楽と,最も甘美な快楽の時代というものは,その追憶が僕を最も惹きつけ,感動させる,そういった時代では案外ないものである。あの夢中と熱狂の短い時間は,それがどんなに激しかろうとも,また,その激しさそのもののために,実は人生という線の中のまばらな点々にすぎないのである。」(p.101より)
大岡昇平の「武蔵野夫人」については,日本近代文学における「(西洋式の)風景」の発見という役割を担った小説であるという。戦争から帰った若者(勉)の視点として,「戦争に敗れた」=「神は死んだ」あとに残ったものとしての武蔵野の自然が描かれているのだが,ひねくれた登場人物たちの毒がこもった独白が私には印象深い。そんな一部分から。
「秋山の眼は窓外に富士を探していた。彼は風景を愛してはいなかったが,彼がここを選んだのは,実は「はけ」から見える富士を眺めながら,「はけ」の人々に不実を働くという奇妙な悖徳趣味からであった。」(p.116より)
2冊の本と,島田雅彦氏の語りの「地」の部分とが絶妙に交差して,自作を語る場とはまた異なる楽しい時間だった。散歩=徘徊とはテーマを持って思考を紡ぐのとは別のオープンな状態なのだ,と言い,都市や街を歩くことはそこに刻まれたデータを読むことであって,本を読むより面白いと締めくくった。いいのか。作家がそんなことを言って,と思わずツッコミたくなる。
蛇足ながら,芸術家の晩年を語る中で,ベートーベンのピアノソナタ32番の2楽章について,「ジジイになったベートーベンの知性が雑多に,ゆるくなっていった」曲と評していたのが可笑しかった。もう一つ,「徘徊」はペルシャ語で「チャランポラン」と言うのだとか!
2017-12-17
2017-12-03
2017年12月,東京世田谷,「あこがれの明清絵画 日本が愛した中国絵画の名品たち」
泉屋博古館分館で開催中の「典雅と奇想」展の連携企画という「あこがれの明清絵画」展を見に世田谷の静嘉堂文庫美術館を訪ねました。12月17日までの開催です。「典雅と奇想」展のチラシは八大山人の魚図が中央に配置されていますが,静嘉堂のチラシは沈南蘋(しんなんびん)のネコ。2枚並べるとネコが魚を狙ってるのだとか?(ホントか??)チラシは少し騒々しいデザインですが,ハンドブックはシンプルな装丁です。
「典雅と奇想」展と作家は重なりますが,この展覧会は「日本人が憧れた明清絵画」という視点なので,日本の画家たちの手になる模本や跋文なども展示されていて,なるほど「若冲,応挙,谷文晁も,みんな夢中になった…」というコピーに頷けます。
李士達(りしたつ)の代表作という「秋景山水図」や,美しい余崧(よすう)の百花図巻など,時間を忘れて見入ります。そして陳曽則(ちんそうそく)の「蘭竹図」の前では思わず釘付けに。さりげないというのでも洒落ているというのでもない,見る人を惹きつけてやまない静かな威厳みたいなものにすっかりノックアウト。
江戸時代の著名な文人たちが所有したとかで,「石は篆書に似て,蘭は隷書に似て,竹は行書に似て,落款は草書に似ている」という跋文にも,なるほど,書画の世界はこうやって楽しむのか!と目から鱗が落ちる思い。
しかし。。すっかりのぼせていたのでこれは誰の跋文なのか(頼山陽だったか。。),ちゃんとメモをしてこなかったオマヌケに我ながらがっくり。これは会期中にもう一度足を運ばなければなりませぬ。
2017-12-01
2017年11月,富山環水公園,富山県立美術館
先週末のこと,所用で冷たい雨の北陸へ。北陸のこの季節は好きではありません。空が低く,暗く,そして寒い。でもこの日は今年開館した富山県立美術館を訪れて,とにかくびっくり。快晴の日には立山連峰を見渡す素晴らしい眺望らしいのですが,この日はまるで北欧にいるかのよう(行ったことないけど)なモダンで洒落たデザインの空間が灰色の空に映えて大感動。建物は運河に面し,それだけで日本じゃないみたい。
一番楽しみにしていたのが瀧口修造コレクション。富山県立近代美術館が閉館・移転すると聞いたとき,その扱いがどうなるのかと思っていたら,こんなに美しい空間に収まるとは!書斎にあふれる漂流物が静かに雄弁に語りかけてきます。奥にはデカルコマニー「私の心臓は時を刻む」から二十点ほどが並び,いつまでもいつまでも立ち去りがたい。(写真左。ピンボケです。雰囲気だけ。)
企画展は「素材と対話するアートとデザイン」展で,この美術館の核となる理想が観客に伝わってくる気持ちのよい作品ばかり。エマニュエル・ムホーのCOLOR OF TIMEはスケールの大きい美しいデザイン。(写真右)
他に,コレクション展の椅子の展示の様子。ミュンヘンのピナコテーク・モデルネのデザイン展示を連想して,ますます日本じゃないみたい気分が盛り上がります。ここのところ家族の事情で全然海外旅行に行けてないので,ナイスな気分転換となりました。
読み返した本,「夜想曲集」(カズオ・イシグロ)
カズオ・イシグロをどんどん読み返す。「夜想曲集」(土屋政雄訳 早川書房 2009)は短編集で,実は初読の印象が残っていない。どんな本だっけ,と思いつつ手に取って埃を払う。そしてあっという間に読了して,こんなに面白かったっけ,と思う。
「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」という副タイトルが語る通り,音楽と夕暮れを背景に,どの物語も男女の危機が描かれる。それぞれ独立した物語が微妙に絡まり合う状況を読者は楽しむ。そして長編「充たされざる者」への緩やかなつながりを思わせる第四編のように,カズオイシグロの世界へと導かれていく感覚を味わった。読みやすくて読後感も気持ちよいので,初めて読む人にはこの本を勧めるかもしれない。
「ヘレンが電話を切る直前,おれは「愛してるよ」と言った。夫や妻が電話の最後に決まってつけるあの早口の一言だ。数秒間の沈黙があって,ヘレンも同じ口調で同じことを言い,電話を切った。いったいどういう意味だったのだろう。ともあれ,包帯がとれるのを待つ以外,いまのおれには何もすることがない。とれたらどうなる?リンディの言うとおり,頭を切り替える必要があるのだろう。人生は,ほんとうに一人の人間を愛することより大きいのだろうか。」(「夜想曲」 p.208より)
「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」という副タイトルが語る通り,音楽と夕暮れを背景に,どの物語も男女の危機が描かれる。それぞれ独立した物語が微妙に絡まり合う状況を読者は楽しむ。そして長編「充たされざる者」への緩やかなつながりを思わせる第四編のように,カズオイシグロの世界へと導かれていく感覚を味わった。読みやすくて読後感も気持ちよいので,初めて読む人にはこの本を勧めるかもしれない。
「ヘレンが電話を切る直前,おれは「愛してるよ」と言った。夫や妻が電話の最後に決まってつけるあの早口の一言だ。数秒間の沈黙があって,ヘレンも同じ口調で同じことを言い,電話を切った。いったいどういう意味だったのだろう。ともあれ,包帯がとれるのを待つ以外,いまのおれには何もすることがない。とれたらどうなる?リンディの言うとおり,頭を切り替える必要があるのだろう。人生は,ほんとうに一人の人間を愛することより大きいのだろうか。」(「夜想曲」 p.208より)
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