2017-12-17

読んだ本,「孤独な散歩者の夢想」(ルソー),「武蔵野夫人」(大岡昇平)

 この2冊のタイトルでピンと来たら,かなりの雅彦ファンと言えるかも。先週のこと,日本文学振興会が主催する「人生に,文学を。」という連続講座を聴講してきた。講師は島田雅彦氏。講演のタイトルは「歩け,歩き続けよ」。場所は駒場の日本近代文学館。空気が冴え,寒さもまた一興の絶好の散歩日和だった。
  講義のタイトル通り,人類は直立歩行によって脳が発達したというところから真面目に始まる。好奇心というものを得たホモサピエンスは,「『これは何だ』という疑問を持ち,『この花はきれいだ』などとグレたことを言うようになった」というあたりから島田読者のハートが騒ぎ出す。

 そして,人間のほっつき歩く習性・本能をテーマに,話はオデュッセイアからドストエフスキーやカントへと飛び,課題図書であるルソーの「孤独な散歩者の夢想」について。青柳瑞穂訳の新潮文庫は200頁足らずの薄さだが,それほど読みやすい内容ではない。しかし。島田氏はこう言うのである。「社会から満場一致で締め出されたオヤジのグチと気付きのメモであり,私小説」。

 課題図書というから必死で眠気と戦いながら読み通したのに,とグレたくもなる。真面目に付箋をつけた個所も後で読み返すとオヤジのグチかと思うと少々むなしい。そんな一部分から。

 「僕は長い一生の有為転変の中にあって気づいたのだが,最も甘美な享楽と,最も甘美な快楽の時代というものは,その追憶が僕を最も惹きつけ,感動させる,そういった時代では案外ないものである。あの夢中と熱狂の短い時間は,それがどんなに激しかろうとも,また,その激しさそのもののために,実は人生という線の中のまばらな点々にすぎないのである。」(p.101より)

 大岡昇平の「武蔵野夫人」については,日本近代文学における「(西洋式の)風景」の発見という役割を担った小説であるという。戦争から帰った若者(勉)の視点として,「戦争に敗れた」=「神は死んだ」あとに残ったものとしての武蔵野の自然が描かれているのだが,ひねくれた登場人物たちの毒がこもった独白が私には印象深い。そんな一部分から。

 「秋山の眼は窓外に富士を探していた。彼は風景を愛してはいなかったが,彼がここを選んだのは,実は「はけ」から見える富士を眺めながら,「はけ」の人々に不実を働くという奇妙な悖徳趣味からであった。」(p.116より)

 2冊の本と,島田雅彦氏の語りの「地」の部分とが絶妙に交差して,自作を語る場とはまた異なる楽しい時間だった。散歩=徘徊とはテーマを持って思考を紡ぐのとは別のオープンな状態なのだ,と言い,都市や街を歩くことはそこに刻まれたデータを読むことであって,本を読むより面白いと締めくくった。いいのか。作家がそんなことを言って,と思わずツッコミたくなる。

 蛇足ながら,芸術家の晩年を語る中で,ベートーベンのピアノソナタ32番の2楽章について,「ジジイになったベートーベンの知性が雑多に,ゆるくなっていった」曲と評していたのが可笑しかった。もう一つ,「徘徊」はペルシャ語で「チャランポラン」と言うのだとか!

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