2018-03-25

2018年3月,東京上野毛,「中国の陶芸」展


 
  一気に春爛漫という陽気に誘われて,上野毛の五島美術館へ。「中国の陶芸」展が最終日でした。中国陶芸史の教科書を順に読んでいくような展示で,溜息しか出てきません。唐三彩は今まであまり惹かれることがなかったけれど,藍釉と緑釉が流れた「三彩万年壺」(8C)にくぎづけに。確か東博アジア館にごくごく小さな類品があったような気がします。

 庭園の枝垂れ桜が満開で,他に誰もいなくて一人占め状態。今年の花見はもう大満足。美しい花木をパチパチ撮影して,かなりフェミニンでしょ?一重の山吹は昔から大好き。

2018-03-18

読んだ本,「海を見たことがなかった少年 モンドほか子供たちの物語」(ル・クレジオ)


  春まだ浅き日の午後,東大本郷キャンパスでル・クレジオ氏の講演を聞いた。講演のタイトルは「詩の魅力 Charme de la poésie」というまさに魅力的なもの。フランス語の同時通訳機も申し込んで楽しみにしていたものの,彼の小説は何を読んだかすら忘却の彼方。あわてて書棚から文庫本(集英社文庫 1995)を取り出して,通勤電車のお伴にする。法文2号館の入り口。
 「モンド」は静かな,そしてとても美しい小説だ。モンドが一体何者で,彼はどこから来てどこへ行ったのか,深く詮索する必要はないのだと思う。この小説を読む私が,モンドの愛する,社会の周縁の愛すべき存在であれば,彼のすべてを理解することができるはずだから。
 
 「モンドは 人のたくさんいるところがあまり好きではなかった。むしろ遠くまで見通せる開けた場所,見晴らし台とか,海のまん中に突き出た突堤とか,タンクローリーの走るまっすぐな大通りとかの方を好んだ。彼が話しかけようと思う人たちが見つかるのはそういう場所だった,ただこう言うだけではあったが。『僕を養子にしてくれますか?』/それは,いささか夢見るような人たちで,手を後ろに組んで何か別のことを考えながら歩いていた。天文学者,歴史の教授,音楽家,税官吏などがいた。時には誰か日曜画家もいて,折りたたみ椅子に座って船や木や日没を描いていた」(p.55より) 
 日々,「歴史の教授」とお仕事をしている私は思わずにやりとしてしまう。さて,講演の方はどうだったかというと,ウェルギリウスからボードレール,李白,杜甫,松尾芭蕉,ランボーなどなど,ル・クレジオ氏が選び,朗読し,解説をし,時々東大教授の中地義和氏が補足の解説をはさむというものだった。日本語対訳のはいった美しいテキストが配布され,同時通訳のおかげもあって,その素晴らしい講義を堪能させてもらった。
 
 とりわけ,李白(仏語表記Li Bai)や王維(Wang Wei)の仏訳の朗読の心地よさ。原文(漢詩)の方が視覚的に理解できるにも関わらず,だ。詩とは現在でも過去でも未来でもなく,永遠なるものであると静かに語った。
 
 講演の最後,文化の違いを前提とした詩を理解することへの意味を問われて,自分と隣人の間にはもともと「間」があるのだ,つながりすぎる必要などない,という内容を答えていた。完全に理解しようとすることはない,「間欠的な理解」こそ大切なのだ,ということだっただろうか。テンポも速く,いかんせんフランス語は単語を聞き取るのも大苦戦だったので,講演の字幕付き動画公開を首を長くして待つことにしようと思う。

読んだ本,「犬婿入り」(多和田葉子)

  多和田葉子を読む。どんな本でも,その内容とそれを読んだ「時間の記憶」とは分かちがたく脳内に蓄積されていくのだが,多和田葉子の小説世界はとりわけ私自身の時間と距離が近いように感じられる。
  この冬,北陸へ向かう乗り物の中で一気に読了した2篇の小説「ペルソナ」と「犬婿入り」は,いい年をしていつまでも世界の中に「正しい位置」を見つけられない私に,世界の中の「異物」としての自分という存在を再認識させてくれるものだった。それは苦い味のするものではまったくなく,どこか甘美な体験でもある。「癒される」という言葉はあまり好きではない。読書に「救われる」ということだ。

 「…台所中にドイツと日本の旗が立ち並んだ。/道子はそれを見ているうちに気分が悪くなり,ひとりこっそりと居間にもどった。居間にもどって,深井の面を壁からはずすと,そっと自分の顔に被せてみた。それから玄関の等身大の鏡に自分の姿を映してみた。すると急に自分のからだが大きくなったように感じた。今まで顔に圧倒されて縮こまっていたからだが,急に大きくなったように見えたのだった。しかもその仮面には,これまで言葉にできずにいたことが,表情となってはっきり表れているのだった」(「ペルソナ」p.73より)

 

2018-03-09

読んだ本,「雪」(オルハン・パムク著 和久井路子訳)

 ずっと書棚に眠っていた「雪」(オルハン・パムク著 和久井路子訳 藤原書店 2006)。いつか読もうと思っていた1冊だが,この冬,手に取ったことはよかったのかどうか。数年に1回という降雪に見舞われたり,北陸の豪雪のニュース映像に胸を痛めたりという日々,ページをめくりながら,カルスに降り積もる雪の景色が眼前に浮かんで辛い思いもしばしばだった。
  しかし,降りしきる雪の中の静かなロマンスや,何一つ解決していかないトルコとトルコ人の問題などを,主人公の42歳の詩人Kaに感情移入して読み進めていくことは,読書の醍醐味であることに他ならない。オルハン・パムクの物語世界を堪能した。

  レビューなどでは翻訳を酷評する声も多いようだが,格調高く,そしておそらくは原文のトルコ語の独特なリズムや文体を日本語へ鮮やかに転換しているのだろうと思わせる和久井路子氏の訳は,私には心地よいものだった。

 「この世で自分は何をしているのだろうかと考えた,Kaは。雪は遠くからいかにも惨めに見えた。自分の人生もいかに惨めなことか。人は生きて,疲れ果てて,やがて何ものこらない。自分がなくなってしまったかのように感じる一方,存在していると考えた。彼は自分を愛していた。彼の人生が歩んできた道は愛と悲しみがついてきた。」(p.118より)