春まだ浅き日の午後,東大本郷キャンパスでル・クレジオ氏の講演を聞いた。講演のタイトルは「詩の魅力 Charme de la poésie」というまさに魅力的なもの。フランス語の同時通訳機も申し込んで楽しみにしていたものの,彼の小説は何を読んだかすら忘却の彼方。あわてて書棚から文庫本(集英社文庫 1995)を取り出して,通勤電車のお伴にする。法文2号館の入り口。
「モンド」は静かな,そしてとても美しい小説だ。モンドが一体何者で,彼はどこから来てどこへ行ったのか,深く詮索する必要はないのだと思う。この小説を読む私が,モンドの愛する,社会の周縁の愛すべき存在であれば,彼のすべてを理解することができるはずだから。
「モンドは 人のたくさんいるところがあまり好きではなかった。むしろ遠くまで見通せる開けた場所,見晴らし台とか,海のまん中に突き出た突堤とか,タンクローリーの走るまっすぐな大通りとかの方を好んだ。彼が話しかけようと思う人たちが見つかるのはそういう場所だった,ただこう言うだけではあったが。『僕を養子にしてくれますか?』/それは,いささか夢見るような人たちで,手を後ろに組んで何か別のことを考えながら歩いていた。天文学者,歴史の教授,音楽家,税官吏などがいた。時には誰か日曜画家もいて,折りたたみ椅子に座って船や木や日没を描いていた」(p.55より)
日々,「歴史の教授」とお仕事をしている私は思わずにやりとしてしまう。さて,講演の方はどうだったかというと,ウェルギリウスからボードレール,李白,杜甫,松尾芭蕉,ランボーなどなど,ル・クレジオ氏が選び,朗読し,解説をし,時々東大教授の中地義和氏が補足の解説をはさむというものだった。日本語対訳のはいった美しいテキストが配布され,同時通訳のおかげもあって,その素晴らしい講義を堪能させてもらった。
とりわけ,李白(仏語表記Li Bai)や王維(Wang Wei)の仏訳の朗読の心地よさ。原文(漢詩)の方が視覚的に理解できるにも関わらず,だ。詩とは現在でも過去でも未来でもなく,永遠なるものであると静かに語った。
講演の最後,文化の違いを前提とした詩を理解することへの意味を問われて,自分と隣人の間にはもともと「間」があるのだ,つながりすぎる必要などない,という内容を答えていた。完全に理解しようとすることはない,「間欠的な理解」こそ大切なのだ,ということだっただろうか。テンポも速く,いかんせんフランス語は単語を聞き取るのも大苦戦だったので,講演の字幕付き動画公開を首を長くして待つことにしようと思う。
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