多和田葉子を読む。どんな本でも,その内容とそれを読んだ「時間の記憶」とは分かちがたく脳内に蓄積されていくのだが,多和田葉子の小説世界はとりわけ私自身の時間と距離が近いように感じられる。
この冬,北陸へ向かう乗り物の中で一気に読了した2篇の小説「ペルソナ」と「犬婿入り」は,いい年をしていつまでも世界の中に「正しい位置」を見つけられない私に,世界の中の「異物」としての自分という存在を再認識させてくれるものだった。それは苦い味のするものではまったくなく,どこか甘美な体験でもある。「癒される」という言葉はあまり好きではない。読書に「救われる」ということだ。
「…台所中にドイツと日本の旗が立ち並んだ。/道子はそれを見ているうちに気分が悪くなり,ひとりこっそりと居間にもどった。居間にもどって,深井の面を壁からはずすと,そっと自分の顔に被せてみた。それから玄関の等身大の鏡に自分の姿を映してみた。すると急に自分のからだが大きくなったように感じた。今まで顔に圧倒されて縮こまっていたからだが,急に大きくなったように見えたのだった。しかもその仮面には,これまで言葉にできずにいたことが,表情となってはっきり表れているのだった」(「ペルソナ」p.73より)
0 件のコメント:
コメントを投稿