2018-06-24

2018年6月,富山市,ガラス美術館・富山市民俗民芸村・佐藤記念美術館

 6月初旬のこと,富山で少しく時間を過ごしてきました。大好きなお能の演目「善知鳥」に因んで立山博物館まで足を延ばしたかったのだけれど、さすがに軽登山くらいの心づもりがいるみたい。また次回の楽しみということにして,今回は富山市ガラス美術館と民俗民芸村と佐藤記念美術館を廻ってきました。 
  ガラス美術館は富山市立図書館と同じ建物に入っていて,いかにも隈研吾という建築。内部で美術館と図書館が緩やかに繋がっていて,それは建築家や行政の目指したところなのかもしれないけれど,純粋にアートを楽しみたいときにはちょっとざわざわした感じが気になるかも。とはいえ、2階フロアから6階フロアまで,多彩な展示空間がとても楽しい。
 
 グラス・アート・ガーデンではデイル・チフーリ氏のインスタレーションがドラマチックな展示。「扇田克也 光のカタチ」展は,ガラスの温かさを感じるという不思議な経験をしました。HOUSEのシリーズが美しい。17日まで開催されていた「ダブルリフレクション 世界を見つめなおす瞬間」展では笹川健一「うつわのこと」シリーズの孕む,ねじれた時間の軽さ,みたいなものに感動。うまく言えないんだけど。 
 バスに揺られて富山市民俗民芸村へ。思ったより規模が大きくて,全部廻ると結構時間もかかりそう。同僚のおすすめの「売薬資料館」と,「民芸館」,「篁牛人記念美術館」の3つを楽しみました。個人的には民芸館が大ヒット!李朝の白磁の壺がツボ。 うっとりです。
  そして最後は佐藤記念美術館で「東洋のやきもの」展。以前ここで見たアジアのやきものコレクションがすばらしかったので,再訪。高麗美術館みたいに入口で朝鮮の石像が迎えてくれます。展示はまたまた期待以上のすばらしさ。ベトナムの充実ぶりに大感激でした。
 
 立山博物館はともかく,富山県水墨美術館や高志の国文学館(秋に堀田善衛展があるらしい!)も行ってみたい。富山,いいところです!


2018-06-17

2018年6月,東京世田谷・日比谷「酒器の美に酔う」「神秘のやきもの 宋磁」展

  過去の仕事の改訂版を作る,というかなり心臓に悪い案件に追われてました。10年くらい前にやらかした自分の仕事なんて直視できないさ!と開き直ってしまおう。合間に弾丸で北陸へ行ったり,うれしい友人とのおでかけで展覧会を見たり,記録を残していなかったので,弾丸忘備録として。
 静嘉堂文庫美術館で「酒器の美に酔う」展。中国古代の青銅酒器なんていう珍品あり,高麗青磁の美しい杯あり,極めつけは土佐光元の「酒飯論絵巻」だったかも。ひたすら酔っぱらう御仁たちの姿に,あ~あ,と思わず吹き出してしまう。チラシには「酒器だいしゅき!」という脱力のコピーが躍ります。楽しい気分になれる展覧会でした。
 
 出光美術館では「神秘のやきもの 宋磁展」を。こちらはちょっと襟を正す感じ。「神秘の」という形容詞がぴったりの美しいやきもののオンパレードで,ひたすら眼福。ははーっという感じ。チラシの美しい龍泉窯の青磁ももちろんのこと,磁州窯の掻落も大好きなんだな。平凡社の陶器全集「宋の磁州窯」(1966)は京都の古本市で求めた宝物みたいな1冊。

読んだ本,「最後に鴉がやってくる」(イタロ・カルヴィーノ)

 「最後に鴉がやってくる」(イタロ・カルヴィーノ 関口英子訳 国書刊行会 2018)を読了。カルヴィーノ自身のパルチザン経験を描いた初期の短編集。「短編小説の快楽」というシリーズの最終巻にカルヴィーノ登場!というわけで,期待度満点で手に取った。カバー絵は桂ゆき(ゴンベとカラス)。
  全23篇,どれをとってもまさに小説の快楽を味わえる。「珠玉」というのはこういう本のためにある言葉だなあ,とおおげさではなく感心する。やはり表題作「最後に鴉がやってくる」が白眉だけれど,「三人のうち一人はまだ生きている」「ドルと年増の娼婦たち」「裁判官の絞首刑」など,目次を見ただけで,そこに広がる世界への期待に心が躍る。

 「最後に鴉がやってくる」は,銃を構えた少年が向ける銃口が読者に向かっているかのような緊張感が漂う短編だ。否,読者に向かっているのは銃口ではない。引き金を引くように,と銃が差し出されているのだ。本物の銃を前にして,読者はどうしてよいかわからず,ただただぞっとする。

 「銃声がするたびに兵士は鴉を見上げた。落ちるだろうか。いいや,  落ちる気配はない。その黒い鳥の描く輪は,  彼の頭上でしだいに低くなっていく。少年に鴉が見えていないということがあるだろうか。もしかすると,そもそも鴉なんて飛んでおらず,自分の幻影なのかもしれない。きっと死にゆく者はあらゆる種類の鳥が飛ぶのを見るものなのだろう。そしていよいよ最期というときに鴉がやってくる。いや,相変わらず松ぽっくりを撃っている少年に教えてやればいいだけの話だ。そこで兵士は立ち上がり,黒い鳥を指さしながら,「あそこに鴉がいるぞ!」と叫んだ。自分の国の言葉で。」(pp.161-162)

 この後に続くラストの3行を「衝撃」という言葉で片づけてしまってよいものか。短編小説を読む快楽に浸った時間もまた,どんな言葉にすればよいのか,悩ましい。

読み返した本,「河岸忘日抄」「雪沼とその周辺」「魔法の石板」(堀江敏幸)

  飯田橋文学会主催の堀江敏幸氏の文学インタビューを聴講するために,この3冊を読み返した。インタビューにあたって,作家自身が「自分の代表作」を3冊指定したもの。堀江敏幸という作家に対する思いは複雑で,これらの3冊が出た2000年代の初めはかなりよく読んでいたけれど,新作が出るたびにだんだん読めなくなってしまった。

 久しぶりの「河岸忘日抄」(新潮文庫 2005)は初読時の高揚感を思い出し,時の経つのを忘れて頁をめくった。異国の川に係留された船で暮らす男と彼を取り巻く人々との関わりは,ストレートに読者の胸を打つ。

 死んでしまった妹の独白。「外を理解するってことは内にも目をむけるってことでしょ? 嫌なものたちの環から外へ出るために,とっとと逃げ出すために切り落としてきた尻尾のほうにこそわたしの「ほんとう」があって,トカゲみたいにあとから生えてきた尻尾はその幻影みたいなものかもしれないって,そう認めることでしょ?」(p.283)

 「雪沼とその周辺」(新潮社 2003)はそれに対して,というのはおかしいかもしれないけれど,読者である私が,作家と登場人物たちの作る共同体に近づけない印象を抱く。初読のときには感じなかったが,このおしゃれな小説たちはどこか冷たい。

 もう1冊の「魔法の石板」は,ジョルジュ・ロペスという作家への敬意と愛があふれていて,小説とは異なる次元で堀江敏幸が自分の世界を構築している。

 というわけで,半月あまりの間,堀江敏幸という作家を追いかける時間を過ごしたのだけれど,なぜ作家はこの3作を代表作として選んだのか。一読者の好みとしては短編小説は「おぱらばん」の方が魅力的なのだけれど。

 そして件の文学インタビューでは,作家はこの3冊は自身にとって特別なものだと語り,それぞれ詳細に語ってくれた。聴衆からの質問「あなたは何を運んでいるのでしょうか」に,「それはわからない。運んでいるものがわかっていたら運ばない」と答えていた。おしゃれだ。

2018-06-10

2018年6月,季節はずれの君子欄の開花

 
 梅雨入りしたかと思うと,台風の影響の大雨が降っています。春先に開花しなかった君子欄の一鉢が,こんな時期に開花しました。葉も花も弱弱しい。たぶん,来年の花芽のためには開花させずに蕾を折ってしまった方がよかったのかもしれないのですが,そんなことできやしない。遅れてきた美しい花たち。