2018-10-27

2018年10月,皇居,秋の雅楽演奏会

  秋の一日,皇居へ出かけて宮内庁式部職楽部による雅楽演奏会を拝聴してきました。秋の演奏会は3回目かな。往復はがきで応募するのですが,意外と当たる確率が高いかも。強運を喜んでいたら,今年は当選者数を増やしたらしいと聞きました。ありがたいことです。
 
 曲目は管弦が「平調音取」,「催馬楽 更衣」,林歌」,「雞徳」。舞楽が左方の舞は「春鶯囀(颯踏・入破)」,右方の舞は「地久」でした。「催馬楽」は初めて聴きました。歌詞がまったく聞き取れませんでした。。舞楽は「地久」の大きな鼻の面が不思議な雰囲気を醸し出していて,この世のものとは思えない舞人たちの動きに吸い込まれてあっという間に終演。
 
 ぼーっと外苑を歩いていたら,桜の開花?! 時空を旅して目の錯覚?! いやいや, 「十月桜」という品種なのだそう。

2018年10月,東京上野,「マルセル・デュシャンと日本美術」展

 東博で開催中のマルセル・デュシャン展を見てきました。この展覧会は「…と日本美術」がポイント。マルセル・デュシャンの展覧会は様々な取り上げ方をされているので,東博ならではというところが興味の対象になるのかと。

 とはいえ,第1部はフィラデルフィア美術館からのコレクションがこれでもか,と並んでいて壮観です。東大駒場博物館の大ガラスの展示も。「遺作」は2005年の横浜美術館の展覧会(「マルセル・デュシャンと20世紀美術」)での再現展示に衝撃を受けたので,今回のような細部展示や映像展示はその記憶をたどる作業になってしまった感じ。
 
 第2部の「デュシャンの向こうに日本が見える」は面白かったけれど,ちょっと無理くり感が否めない。。竹製の花入れを「レディメイド」と言うのはいかがなものでしょうか。あれは「竹でできた花入れ」なのですよね。。
  
 ところで余談ですが,先日横浜美術館のコレクション展で2005年のデュシャン展にも出品されていた吉村益信の「大ガラス」を見て(「イメージの引用と転化」),今回の展覧会と同じタイミングだったので面白かった!

 実は2005年当時,デュシャンのどの作品よりもこのでっかいカラスの印象が強烈で,デュシャン展にでかけてパロディが一番強烈だったとは,それこそデュシャンのワナにはまったのか!と思ったものでした。(⇒日本語限定だと後で気付いたけどね。今回,横浜美術館のコレクション展リストにはこんな解説が付いてました。Oh-Garasu (Japanese homonym of "The Large Glass" and "a big crow"これなら外人さんにも大うけ?!)
(横浜美術館のコレクション展です。東博のデュシャン展とは関係ないのであしからず。)
  東博ではほかに「大報恩寺 快慶・常慶のみほとけ」展と東洋館の「中国書画精華」の後期展示も。

2018-10-08

読んだ本,「エバ・ルーナのお話」(イザベル・アジェンデ)

  イザベル・アジェンデ「エバ・ルーナのお話」(国書刊行会 1995)を読了。「日本人の恋人」が面白かったので,読んでみた。全部で23扁の短編集である。とにかく「物語」の人だ。ガルシア・マルケスに似ているという書評をどこかで読んだことがある。

 最初と最後に「千夜一夜物語」からの引用があり,現代のシェヘラザードたるアジェンデの語り手としての自負が伝わってこようというもの。解説で木村栄一氏は,アジェンデは神話的祖形の鋳型を使って物語を創造しているのだと結論づけているが,その物語世界は幻想的でありながら現実的,陰惨でありながらユーモラスだ。殺人も復讐も替え玉も,世界のすべてが渾然一体となって読者を魅了する。

 どの短編もそれぞれの魅力があって忘れがたいが,「北への道」「無垢のマリーア」「終わりのない人生」「幻の宮殿」などなどがとりわけ心に残る。不治の病の老妻を手にかけて,自らも致死量の毒を入れた注射器を手にした老人はしかし,自分の血管に注射を打つことができなかった、そんな夫婦の愛の物語である「終わりのない人生」はこんな風に始まる。

 「お話にはいろいろな種類がある。話しているうちに生まれてくるものもあるが,だれかが言葉にして語る前は,とりとめのない感動,ふとした思いつき,あるイメージ,おぼろげな記憶といったものがやがてお話になる。ただ,どんなお話も言葉でできている点が共通している。中にはまるでリンゴのように最初から完全な形で生まれてくるものもあるが,(略)また,記憶の奥底に秘められているお話もある。そういうものは生命組織のようなもので,根を張り,触手を伸ばし,付着物や寄生植物をまとう。時間が経つとともに,それは悪夢の種になって行く。時々記憶から生まれてくる悪魔を祓うために,物語として話さなければならなくなる」(p.214)

 

読んだ本,「ヘンな日本美術史」(山口晃)

 泉屋博古館で日本画の展覧会を見てから,思い立って手に取った本。小林秀雄賞を受賞したときのすずしろ日記(UP版第104回)がケッサクだったので購入してそのまま本棚に眠っていた。
  文章は平明だけれど,山口晃という絵師にしか書けない・見えないものがちりばめられていて夢中で読み終えた。図版も美しいけれど,本人のさらさらっと書いた挿図もまたお見事。(「慧可断臂図」の顔の説明。これはキュビズム!だ!)

 もともと講演で話した内容を文章にまとめたものらしい。「山口晃という絵師にしか書けない」という点が小林秀雄賞につながったのだろうか。「すずしろ日記」では小林秀雄を「ヘリクツの王様」扱いで思わず苦笑。河鍋暁斎を扱う次のような文章ではその面目躍如といった感じだろうか。芳崖や雅邦を見た後なので,尚更面白く読んだ。

 「近代の日本画は,私などには天心の危機意識と同志フェノロサの理想の押し付けが生み出した外発性の高い人工的な代物に見えるのです。先述した旧来伎藝の再編入以上に近代日本画に見られるのは,バルールの重視と透視図法の導入です。この二つは多分に西洋画的な要素であり,暁斎の描く実感による画と相いれませんが,西欧や欧化への対処の為にあえて加えられたのです。これを試した芳崖や雅邦の後の人たちは,パースのきちんととれた画を描くようになります。/パースに関しては暁斎は「とれない」と云うことになるのですが,私はあえて「とれない事ができる」と言い換えます。」(p.229)