2019-01-06

読んだ本,「若き日の詩人たちの肖像」(堀田善衛)

 昨秋から堀田善衛を読んでいて,「若き日の詩人たちの肖像」に取り掛かったものの,読み終えるのに随分と時間がかかってしまった。文体は軽妙とまではいかないが,決して重いものではなく,むしろ明るさをまとっているにも関わらず,だ。読み飛ばせないものが文章に込められているからかもしれない。それは言葉にすると「真実」というものだろう。
  書店でぱらぱらと立ち読みをしただけだが,池澤夏樹が「堀田善衞を読む: 世界を知り抜くための羅針盤」(集英社新書)の中で,「読みやすく面白い」という理由でこの本を勧めていた。「自伝小説」風ではあるが,あくまでフィクションなのだと強調している。「マドンナ」も「婆さん」もかなり脚色された人物像であると。

 しかし,前半の「若者」,後半の「男」が作家自身であることは自明だ。荒唐無稽な生活をしているようで,フランス語の翻訳でまとまった収入を得る学生がやがて招集される。堀田善衛という人間の核の部分が形成されていく若き日が赤裸々に綴られ,読者もまたこの若者の姿を通して自己の内面を否応なしに見つめることになる。

 そしてここに登場する人物たちは「詩人」なのだ。詩を書く詩人もいれば,書かない詩人もいる。詩人は「言葉」と共に生きる。慌ただしい日常の中で,時間を削り出して頁をめくる日々は,私にとって稀有な体験だった。

 上巻で印象に残ったのは「阿佐ヶ谷の先生」が北京の天壇の話を持ち出す場面。「先生はしきりにもどかしがった。天というものがある,それはあるのだ,しかもその天という奴が,天が地面の上に天そっくりなかたちの建物になって存在する、しかもその建物は,(略)天そのものなのだ,ということを言うのは,これはやはり容易なことではなかった。(略)『ことばになって,天ということばがある以上,天は,そりゃあるでしょう』と若者が助け手に出ると,逆に先生は『そんなら神ということばがある以上,神はあるのか』と問うてきた。『そうです!』(略)『それじゃ,ことばになっているものは,ぜーんぶ,存在するのか』『そうです』『ふーむ』若者は,それが信じられなければ何が文学だ,と言いたかったのだが,それは生意気というものである。」(上巻pp.324-325より)

 下巻では「戦死」について思考する場面が強烈だった。「…そのアメリカの牧師が自分の家族の話をして,兄さんが,「…killed by war, died in France.」戦争で殺され,フランスで死んだ…。と言ったことが思い出された。戦争で殺されて,フランスで死んだ。「ハハァ,殺されて,死んだ,か」とひとりで呟いてみると,『戦死』という日本語よりも,キルド・バイ・ウォー,ダイド・イン・フランスと言う方が,やはり正確なように思われて来る。(略)啓示のようにしてやってきたこの考えは,身に慄えの来るほどに怖ろしいものであった。若者は,思わずあたりを見まわしてから,よろよろと起き上がった。こんなことは間違っても口にしてはならぬ…。(略)言葉というものは怖ろしいものだ。とつくづく思わないわけに行かなかった。言葉ひとつで,現実はまさにどうにでも修飾され,しかも言葉ひとつで,現実は目の前に居据って動きも無くなりもしなくなる。」(下巻pp.125-126より)

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