2020-12-30

読んだ本,「動物寓話集」(コルタサル)

  光文社古典新訳文庫の「奪われた家/天国の扉 動物寓話集」(コルタサル 寺尾隆吉訳 2018)を読了。「動物寓話集」は表題作を含む8つの短編からなる短編集だが,どの短編にも寓意としての動物が登場する。

 どの短編もぞっとするほど魅力的だが,一番惹かれたのは「キルケ」。思わずJ. W. Waterhouseのあの1枚を思い出さずにいられない。奇しくも短編の扉にはガブリエル・ロセッティの「林檎の谷」の一節が引用されている。ラテンアメリカリアリズムのミューズはラファエル前派?

 二人の婚約者を亡くしたデリアを愛したマリオは,求婚を決意してこう思う。「結婚まで至らずとも,こうして静かな愛を引き延ばしていれば,やがて彼女は隣に三人目の死者がいるとは思わなくなり,この恋人もやがて死ぬという予感から解放されるだろう」(p.125)

 男のこんなうぶな思いこみがいかに脆いものであるかが明らかになり,デリアの「予感」がいかに怖ろしいものであるかを知るとき,コルタサルの現実と虚構の境界,つまりは生と死の曖昧な境界を漂うのはこの短編を読む自分自身だと気付く。三人目の死者は私だったのかもしれない。

 さて,この年末年始はまたステイホーム期間となりそう。大掃除と読書で過ごします。拙ブログを見てくださる皆さま,どうぞよいお年を。来年はよい年になることを願いつつ。

2020-12-20

2020年12月,東京小平,「DOOR IS AJAR 山本直彰展」(武蔵野美術大学美術館)

  武蔵野美術大学美術館へ山本直彰展を見に行く。武蔵野の地に広がるキャンパスには美大生らしい個性的な若者があふれ,ちょっとした異世界のよう。

 展覧会のタイトルは"DOOR IS AJAR"。えっ,"ASK,SEEK, KNOCK"の次についにドアが開いたの?と驚いたが,日本語が添えられている。「ドアは開いている か」。問われているのだ。観る者としてドアに対峙する私たちに。

 1998年頃に初めてこの作家の存在を知り,閉ざされたDOORに惹かれ続けてきた。身体の芯から溢れ出る言葉もまた鋭く,今展の図録に収録されたエッセイ選を夜更けに読むと,私と世界の間のドアはバタンと閉じる。

 第2会場に展示された新作「我々はどこからこないで 我々はどこへいかないのか」を前にして,人をくったようなタイトルにめんくらいながらその意味を考える。2011年にインタビューに答えて「(生きることとは)前も後ろもないどこかへ向かっていること」と答えたという。

 私は作品の前で,右往左往しながらプラハ滞在時のドローイングやドアの写真を見て息を呑む。プラハではドアは開いて「いた」のか。いや問われているのは今,「開いている か」。

 いつまでもいつまでも考え続ける。

 冬の陽ざしが眩しい。前庭の植物たちが賑やかに迎えてくれる。

2020-12-06

2020年12月,横浜みなとみらい,三浦一馬 キンテート〈マルコーニ&ピアソラ〉・横浜美術館「トライアローグ」展

 一足早いクリスマス。久しぶりにみなとみらいホールにでかけました。前から三浦一馬のバンドネオンを生で聴いてみたかったんだ。「キンテート」は五重奏「クインテット」のスペイン語なのだそう。ヴァイオリンは石田泰尚。我らが(?)神奈川フィルの顔が,今やカリスマヴァイオリニストとして大人気!舞台でおじぎするだけで割れんばかりの拍手!

 第1部のマルコーニが昼の音楽だとしたら,第2部のピアソラは夜の音楽なのかな。ひたすらかっこいい。ずいぶんと前にヨーヨー・マのピアソラのCDを繰り返し聴いてたころがあったけど,生の迫力に興奮度マックスです。

 前半にネストル・マルコーニの6曲、後半にピアソラの「92丁目通り」,「プレエパレンセ」など6曲、アンコール最後にリベルタンゴ!

 帰りが遅くなりそうだったので,会場近くで1泊し,翌日は横浜美術館の企画展「トライアローグ」を見て帰りました。横浜美術館・愛知県立美術館・富山県美術館の20世紀西洋美術コレクションが大集合。それぞれの館の特徴が出てておもしろかった。

 特に同じ作家の作品が並んでると,観客としての好みの差が出るというか。私は富山のセンスが好きだったな。サム・フランシスは愛知のは派手,富山のはシンプルで。リキテンスタインは横浜のはステレオタイプで,富山のは斬新,みたいな感じで。 

読んだ本,「理由のない場所」(イーユン・リー)

  「理由のない場所」(イーユン・リー 篠森ゆりこ訳 河出書房新社)を読了。イーユン・リーの著作は「黄金の少年,エメラルドの少女」を読んだことがあるだけ。どうにもアジアの作家が英語で書いた小説を日本語訳で読む,というのが私の中でうまく消化できない気がしてしまうのだ。

 この小説でも,読み始めてしばらくは,たとえばpp.62-63あたり,「たいしたことのない人間」に片仮名で「ノーバディー」とルビがふってある。「たいした人間」には「サムバディー」,逆にルビ「サム・バディー」の日本語訳は「何らかの肉体」である。いったい,作家の思考(そもそも英語なのか,それとも中国語なのだろうか?)を表す言葉は何で,それを英語で表したものを日本語に翻訳する訳者の仕事とは何なのだろう。読者は「たいしたことのない人間」を「ノーバディー」と再変換しなければならないの?

 しかし,母親とニコライという16歳の少年の淡々と続く対話を読み進めるうちに,こういうもやもやはどこかへ消えていってしまう。ニコライはすでに亡くなっている。母は彼に訊きたいことがたくさんある。しかし,ほしい言葉は返ってこないし,そもそも言葉を返してほしいとは思っていない。
 
 この対話はいつまで続くのだろうという読者の疑問は,母親とニコライにとっての言わずもがなの疑問だ。最終章はただひたすら,この二人の対話がどこへ向かうのか,息を詰めて読むしかない。

 「ママはフィクションを書くよね、とニコライが言った。/うん。/だったらどんな状況でも好きなように作り出せばいい。/フィクションはね,作り出すんじゃないの。ここで生きなければならないように,その中で生きなければならないの。」(p.192)

 「訳者あとがき」も一遍の小説のようだ。イーユン・リーのアメリカでの生活とヴィンセントという息子の死について知ることは,「小説を読む」という行為に伴う痛みとして,あまりに重く胸をしめつけられるものだった。