この小説でも,読み始めてしばらくは,たとえばpp.62-63あたり,「たいしたことのない人間」に片仮名で「ノーバディー」とルビがふってある。「たいした人間」には「サムバディー」,逆にルビ「サム・バディー」の日本語訳は「何らかの肉体」である。いったい,作家の思考(そもそも英語なのか,それとも中国語なのだろうか?)を表す言葉は何で,それを英語で表したものを日本語に翻訳する訳者の仕事とは何なのだろう。読者は「たいしたことのない人間」を「ノーバディー」と再変換しなければならないの?
しかし,母親とニコライという16歳の少年の淡々と続く対話を読み進めるうちに,こういうもやもやはどこかへ消えていってしまう。ニコライはすでに亡くなっている。母は彼に訊きたいことがたくさんある。しかし,ほしい言葉は返ってこないし,そもそも言葉を返してほしいとは思っていない。
この対話はいつまで続くのだろうという読者の疑問は,母親とニコライにとっての言わずもがなの疑問だ。最終章はただひたすら,この二人の対話がどこへ向かうのか,息を詰めて読むしかない。
「ママはフィクションを書くよね、とニコライが言った。/うん。/だったらどんな状況でも好きなように作り出せばいい。/フィクションはね,作り出すんじゃないの。ここで生きなければならないように,その中で生きなければならないの。」(p.192)
「訳者あとがき」も一遍の小説のようだ。イーユン・リーのアメリカでの生活とヴィンセントという息子の死について知ることは,「小説を読む」という行為に伴う痛みとして,あまりに重く胸をしめつけられるものだった。
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