2021-08-21

2021年8月,リュウビンタイの成長


 リュウビンタイの芽の成長が速くてびっくりします。大小2つの株を育てていて,こちらは小さいほう。この姿に惹かれるのは,大好きなカール・ブロスフェルトの写真を思い出すから! ミュンヘンの古書店で買った写真集。よくこんな重い本を買ってきたな,と思ってしまいます。そんなに前のことではないのに,あの頃は若かったなと考えてしまう自分が怖ろしいです。。

読んだ本,「ポルトガル短編小説傑作選 よみがえるルーススの声」(ルイ・ズィンク,黒澤直俊編)


 昨年度(2020年度)の朝日新聞文芸時評は小野正嗣氏が担当していて,海外小説を読む大いなる導きとして楽しみにしていた。この本も同欄で氏が紹介していたもの。ヨーロッパ文芸フェルティバル2020に合わせて刊行されたポルトガルの現代作家の短編アンソロジーである。

 ポルトガル文学といえばペソアしか思い浮かばない。12の短編の作家たちも誰一人知らなかった。マリオ・デ・カルパーリョ「少尉の災難」,イネス・ペドローザ「美容師」,ジョゼ・ルイス・ベイショット「川辺の寡婦」など。どの一編も決して明るくはない。

 ゴンサロ・M・タヴァレス「ヴァルザー氏と森」はようやく完成した新居に次々と職人たちが現れて家が解体されていく。コルタサルの「奪われた家」を思い浮かべて暗鬱な気持になるのだが,その結末は読者の想像をまったく超えてしまい,呆気にとられるとしか言いようがない。狐につままれたような,というのはこういう読後感のことを言うのだろう。

 ドゥルス・マリア・カルドーゾ「図書室」は「本が俺を救った。俺はそれをはじめて声を大にして言う。本のおかげで自殺しなかったということに,大の男が恥じ入らずにはいられない。か弱い小娘にあるようなことだからだ。だが本当のことだ」という刺激的な書き出しで始まる。
 
 「俺」は「図書室」で「お前」に語りかける。「お前が以前ここに来たのはいつだったか。もう時間が混乱してしまってなあ。時間というのは残り少なくなるにつれてその重要性を失うものだ。減れば減るほど価値がなくなるというものだ。少なくなるにつれてその価値を失う唯一のものだろう」(pp.95-96)

 彼が「本」について語る箇所について,世の中のすべての読書家に聞いてみたい。できることなら私が安らぎを得られる唯一の場所である図書室で。あなたはどう思う?これを読んで。

 「おそらく本は,歪んだ線で真直ぐ書くように,一見よくわからないやり方で悪から善を導きだす。神のように。俺は歪んだ線だ。このところ,俺が自問しているのは,神は誰を選ぶだろうか,誰に書かせようとするのだろうかということだ」(p.104)

2021-08-15

2021年8月,リュウビンタイの新芽

 目の調子が悪くて,読書が進みません。昨日,大竹伸朗と石川直樹の対談番組を視聴。わずかな時間でもその日に何かを残すことで,昨日から明日へつなげることができる,という趣旨の言葉に思わずハッとする。今日はリュウビンタイの新芽をここに残そう。


 

2021-08-08

2021年8月,東京渋谷,「アイヌの装いとハレの日の着物」

 ステイホームはわかってるけど,感染対策は万全にして会期終了間近い「アイヌの装いとハレの日の着物」展を見に松涛美術館へでかけました。ウポポイ開業1周年を記念する展覧会とのこと。そうか,開業間もないウポポイに出かけたのは1年前だったな。このコロナ禍,時間の流れが速いのだか遅いのだかわけがわからなくなっています。

 服飾文化に的を絞っているので,素材や文様など細部に目を向けて楽しむことができます。展示会場にはウポポイのとてもスタイリッシュな広報映像も流れ,また行きたいと旅心がかきたてられます。

 展示室廊下には博物館概要を紹介するパネルなども。ただ,まるで「美しいアイヌ文化を楽しむ博物館」みたいな扱いがちょっと気になる。あそこはアイヌを理解するための場所であって,美しいものが展示されているだけの場所ではないはず,と本気で思ってしまったのでした。

2021-08-03

読んだ本,「クララとお日さま」(カズオ・イシグロ)

 でかけたい展覧会はいろいろあるのだけれど,休日に外出することにすっかり臆病になってしまい,職場と家を往復する日々が続いている。テレビばかり見て過ごし,読書も進まずすっかりこの場所を放置してしまっていた。

 図書館で予約していたこともうっかり忘れていたカズオ・イシグロの新作(土屋政雄訳 早川書房)。前作の「忘れられた巨人」があまり心に響かなかったので今作も期待せずに読み始めたのだが,一気に読了。

 語り手のAF(人工親友)のクララと病弱な少女ジョジ―との日々が綴られる。AFとは人工頭脳を搭載したロボットだ。物語の冒頭から読み手は不安に包まれる。まるで児童文学のようなタイトルのこの物語の正体はいったい何なのだろうかと。

 徐々に明かされていくジョジ―の母親の真意と,それを理解するクララの「純粋な心」があまりに切ない。人間がロボットに求めるのは自己犠牲でしかないのに,クララがジョジ―に与えようとしているのは「悦び」であり,それに伴う「悲しみ」なのだ。人間と科学との関わりとは,そして倫理とは。読み手は常に考えなければならない。

 平易な日本語訳で読みやすく,「わたしを話さないで」とテイストは似ているかもしれない。久しぶりにイシグロワールドを堪能した気がする。最後にもう一度表紙を開いてはっと息を呑んだ。この物語は2019年に亡くなった母親に捧げられている。執筆中に亡くなったのか、それとも完成していたのだろうか。ジョジ―を思う母親の姿にはわずかでも作家自身の母親の姿が投影されているのだろうか。

 物語の最後にクララがある人物に再会して語る言葉の中にこの物語のすべてが集約されているようだ。それをここに引用してしまうのはあまりにルール違反な気がしている。なので,クララがジョジ―の母親と2人ででかけて,道沿いで見かけた雄牛に恐怖を感じる場面から。

 「その顔,その角,わたしを見つめる冷たい目…すべてがこちらの心に恐怖を吹き込んできます。それだけではありません。その雄牛にはもっと奇妙で深い何かがありました。あの瞬間に感じたのは,この雄牛は重大な過ちだ,ということです。この動物がお日さまの光模様の中に立つことを許されたのは過ちであり,いるべき場所は地中の奥深く,泥と闇の中であり,地表の草のあいだに置くことは怖ろしい結果をもたらす,と感じました」(p.145)