2024-08-26

読んだ本,「アフリカのひと」(ル・クレジオ)

 「アフリカのひと 父の肖像」(ル・クレジオ 菅野昭正訳 集英社 2006)読了。ル・クレジオは大部の著が多いので,つい身構えてしまうけれどこの本は文字が大きいしボリュームも少な目で読みやすそう,と思って手に取った。

 確かにすらすらとは読めるのだけれど,あとがきには,小説家ル・クレジオはラウル・ル・クレジオ医師を「ひとりの父親の枠のなかに囲いこもうとしていない」,「《ポスト・コロニアリズム》の先駆者の像を見たのだった」,その点で,この「アフリカのひと」は一篇の回想記の域を越えるのだ,とある。(pp.169-172)

  そして全編を通して,彼の作品に通底する大地と自然への畏怖が,少年時代にアフリカという大地で身につけたものであることが伝わってきて感動的ですらある。「さまざまな身体の匂い,手ざわり,ざらざらしてはいないが温かく軽やかで,たくさんの体毛が逆だっている肌。私のまわりのさまざまな身体の大変な身近さ,その数の多さを私は今も感じている,なにかそれ以前には私の知らなかったもの,恐ろしさを取りのぞく,なにか新しいと同時に親しみやすいものを。」(「身体」p.15)

2024-08-17

読んだ本,「閉ざされた扉 ホセ・ドノソ全短編」


  ホセ・ドノソは長編「夜のみだらな鳥」で格闘(?)して以来,手に取るのを躊躇してしまいそうになるのだが,2023年に短編集が出ていたのを知って,短編ならばと読んでみた。実に面白く,満腹の読後感。水声社のフィクションのエル・ドラードシリーズの1冊で,訳は寺尾隆吉による。

 14の短編から構成されている。全短編ということは,これで全部なのだろうか(当たり前),どれも魅力的だが,標題作の「閉ざされた扉」,「散歩」,「サンテリセス」,そして最も短い「《中国(チナ)》」が心に残る。「夜のみだらな鳥」と同様に,狂気と妄想の渦巻く世界がコンパクトに眼前に現れるので,読みながら「行って帰ってくる」感覚とでも言えばよいのか,これぞ読書の醍醐味といった時間を堪能した。

 「散歩」は,書き手の叔母であるマティルデがある日みすぼらしい白い雌犬と「視線がぶつかった」ときから始まる。マティルデと白い犬は散歩に行く。何処へ? 私は彼らの後をそっとついていく。彼らは気付いていないはずだ。ずんずんと進む。彼らは気付いているのかもしれない,と思い始める。私は帰りたくなる。頁を繰る手が震える。
 
 「死は恐ろしいものではなく,整然として濁りのない最終段階なのだ。もちろん地獄は存在するが,私たちとは無縁で,この町の他の住人たち,損傷を引き起こして訴訟とともに我が家の富を増やしてくれる名もない船乗りたちを罰するために存在するだけなのだ。」(「散歩」pp.206-207)

2024-08-15

2024年8月,龍岩素心の開花


 今年もこの暑さの中で開花した龍岩素心。なぜ毎年この季節なのか不思議で仕方ない。日々,肉体と精神の老いに直面し,来年もこの可憐な花を見ることはできるのだろうか,とそんな滅相もない疑問もあながち非現実的なものではない今日この頃。


 
 

2024-08-02

2024年8月,東京日本橋,ジャッカ・ドフニ


 5月か6月だったか,どこかの展覧会のチラシ置き場でこの展覧会を知ってびっくり仰天しました。ジャッカ・ドフニの展覧会? もう閉館してしまったのではないの? その存在を知って,何が何でも行ってみたいと思ったけれども,それは永遠に叶わないと知ったのも同じとき。津島佑子の「ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語」を読んだときのことでした。この本を読んだのは2016年のことだから,8年ぶりに私の記憶も揺さぶられたということ。

 高島屋史料館で開催されている「ジャッカ・ドフニ 大切なものを収める家」は小規模な展示ながら,ジャッカ・ドフニに収蔵されていてその後北海道立北方民族博物館に移管された資料の精鋭たちを紹介する展覧会です。「ウィルタとその文化に出会う場」が都会の華やかなデパートのフロアの片隅に出現するのも不思議な感覚。
 
 ウィルタを中心に,ニブフ,樺太アイヌなどサハリンに暮らした少数民族の歴史や生活文化を知ること。私の場合は津島佑子の小説が入口となって,主要な登場人物だったゲンダーヌさんがこの展覧会でもキーパーソンとして登場したことで,虚構の世界が一気に現実の世界へと変貌したみたい。真夏の一日,私は網走へ,サハリンへ,そして書物の中の世界へと旅をしてきたのだろうか。

 ずっと体調が思わしくなくて,9月に予定していたネパールへの旅もキャンセルしてしまった今,次の現実的な目標は網走の北方民族博物館へ行くことかな。実現しますように。
 展覧会場の前のジオラマの一部。