木村榮一著「ラテンアメリカ十大小説」(岩波新書)の中の1冊なので,以前から読んでみたいと思いつつなかなか手が出せなかった。そして手を出してすぐに後悔した。これはとてつもない小説だ。
同著によれば,コルタサルは悪夢を見ると「悪魔祓いの儀式」として短編を書くのに対して,ドノソは「強迫観念から生まれる狂気や妄想」を作品の中で描き出したのだという(「ラテンアメリカ十大小説」p.140)。まさにその「狂気と妄想」の世界に読者は引きずり込まれて,マジックにかかったように読み進めることになるのだ。
語り手のウンベルトと彼を取り巻くドン・ヘロニモ,ドーニャ・イリス,そして彼らの子「ボーイ」。登場人物とあらすじをまとめてみることはもちろん可能だ。しかし,そこにどんな「意味」を見出すことができるのか。読み終えて数日,読書のカタルシスを感じるどころか,狂気と妄想の世界に置き去りにされて未だ呆然としている。
一体どの部分をここに引用しようか。どこを切り取っても狂気の一部であり,すべてが妄想なのだ。特殊な存在(詳細は伏せておく)である「ボーイ」が育てられるリンコナーダの屋敷での場面から。「…《ボーイ》は知ってはならぬことばのなかでも,とくに大事なのが,始めや終りを名指すすべてのことばだった。理由,時,内,外,過去,未来,開始,結末,体系,帰納に類することばはいっさい,ご法度。ある時刻に空をよぎる一羽の鳥も,どこかよそへ飛んでいくのではない。よその場所など存在しないのだから。また,ほかの時刻に飛ぶということもない。ほかの時刻など存在しないのだから。《ボーイ》が生きているのは,呪縛された現在である。偶然や特殊な状況の辺土のなかである。物からの孤立のなかである。」(p.196)
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