2025-12-30

2025年12月,東京六本木ほか,展覧会の記録

 12月の忘備録として。フジフィルムスクエアにエドワード・マイブリッジの写真を見に行く。「連続写真に取り憑かれた男」という副タイトルがついている。取り憑かれたっていうのは穏やかじゃないな,と思いつつも,その生涯と撮影手法の詳しい解説を読むとなるほど,である。

 マイブリッジの連続写真は写真史の展覧会とかで数点ずつ見たことはあるけれど,まとまった形で見るのは初めてでちょっと感激。プリントは19世紀末のオリジナルではなくて,富士フィルムが所蔵するフォトグラヴィアの展示。関連書籍は原本の展示。 

 四谷の韓国文化院に「浅川兄弟の遺した道」という展示を見に行く。兄弟の旧蔵の朝鮮陶磁器などの展示がメインかと思っていたら,それらは展示の一部で,むしろ彼らの生涯そのものを丁寧に紹介する企画展。夥しい数の付箋がそれ自体美しい「朝鮮半島窯跡分布図」はまさに彼らが辿った軌跡を示すもの。記念講演会も聴講した。北杜市に浅川兄弟の資料館があるらしい。暖かくなったら行ってみたい。それまでに復習しておかなくちゃ。 
 12月はほかに,山種美術館で「LOVE いとおしい…っ!」展を見る。タイトルで損してるのではないかと思うけど,中身は濃い展示で見ごたえたっぷり。LOVEが題材の日本画といえば,浄瑠璃や能・歌舞伎を題材にしたものが多くて,画面から物語が立ち上がってくるものばかり。小林古径の「清姫」の連作は全8点が展示されていて,お能や歌舞伎のそれぞれの場面を思い出して興奮!

2025-12-27

2025年12月,東京六本木ほか,コンサート・観能の記録

 12月はあれこれと楽しい外出が続いて,記録が追い付かないまま。このまま年を越すのは気がかりなので,簡単に忘備録として。クリスマスも間近い休日に,サントリーホールで三浦一馬キンテートのピアソラ・ザ・ベストを聴きに行きました。ファン感謝祭と銘打って,メンバーの短いおしゃべりもあり,後半にはサンタ登場の趣向もあり,とにかく最高!の夜。最高のプログラムの中でもお約束の「リベルタンゴ」,それから「鮫」がよかった。

 がらりとかわって今月は2回,お能の公演にでかけました。初めての川崎能楽堂で定期能第一部の「井筒」と狂言「福の神」を拝見。実は久しぶりに福王和幸師の舞台が見たいなあと思って見つけた公演。大好きな井筒だし。業平の衣裳をまとった井筒の女の霊が業平の面影をなつかしんで舞う姿に泣きそうになる。川崎能楽堂は思ったよりこじんまりしてて(屋根も白洲もないんだ),舞台が目の前でちょっとびっくり。
 そして思いがけずチケットが手に入った12月国立能楽堂特別公演では「綾鼓」と,野村万作・萬斎・裕基そろい踏みの狂言「野老(ところ)」を拝見。「綾鼓」はたしか初見のはず。三島由紀夫「近代能楽集」のインパクトが大きいだけに,字幕で詞章を追いながらドキドキしつつ舞台を見つめます。中入りの直前,庭掃きの老人が入水すると,見ているこちらが胸が張り裂けそうに。来年は観能の機会をもっと増やしたいなあと思いながら,冷たい雨の中,帰路に着きました。

2025-12-25

読んだ本,「研修生」(多和田葉子)

 多和田葉子の新刊「研修生」(中央公論社 2025)読了。大部なので時間がかかるかと思いきや,読み始めたら一気だった。とにかく面白いの一言。大学を卒業した「わたし」がドイツにある書籍取次会社で研修生として働く夏から冬への日々。職場の同僚や,旅で知り合った人たちと濃密に「ドイツ語」で関係を築きながら生活を送る。筆者の自伝的要素もあるとのことだけど,どこまで実際にあった出来事でどこからフィクションなのか,最初は読み手が主導権を握っているようでいて,終盤にかけては作者の掌の上で転がされたような読後感だ。

 日々の何気ないエピソードに,突然長い時間を経た視点が差し込まれることがあって,「わたし」はいつどこにいるのだろう,そして多和田葉子という小説家はどこから「わたし」のドイツの日々を見ているのだろう,と不思議な感覚に陥るのだが,小説のラストに辿り着いたときにその疑問は氷解する。

 いかにも多和田葉子というドイツ語や日本語の言葉遊び的な,しかし深遠な言語哲学のあれこれも面白く,こうやって彼女の小説は紡がれ始めたのだろう,と得心がいく。奈良で出会って再会したハンブルグ在住のマグダレーナとの共依存的同性愛関係が通奏低音のように胸に迫ってくる。二人はこの後,どんな人生を辿るのだろう。

 ちょうどクリスマスに読み終えたので,「わたし」がドイツで初めて迎えるクリスマスが近づく頃の一節。「クリスマスは毎日近づいてくるようで,遠ざかっていくようでもあった。クリスマスを遠ざけているのはわたしの心であったかもしれない。待ちわびている人がもしかしたら来ないかもしれないという不安から,どうせすぐには来ないだろうとわざと手の届かない未来に押しやってしまう心理と似ている。/十二月には会社の「クリスマス食事会」というものがあることを知った。(略)確か日本にも「忘年会」という飲み会があったが,それと同じようなものなのかもしれない。「忘年会」という言葉をあらためて思うと,年の苦労を「忘」れるために飲む,というのは消極的だという気がした。どうしてその年の楽しかったことを思い出して飲む「楽年会」ではないのか。わたしは今年起こったことで忘れたいことってあるだろうか。嫌なことも含めて全部保存しておきたい気がする。」(pp.452-453)
 

2025-12-18

2025年12月,神奈川川崎ほか,英伸三展ほか

  展覧会の記録をいくつか。川崎市市民ミュージアムの企画展が向ヶ丘遊園駅前の商業ビルで開催されている(21日まで)。スーパーやファミレスの入るちょっと年季の入ったビルなのだけれど,写真展の会場はまるで異世界のよう。平日の昼間,来場者も少なく,静かにモノクロの世界に向き合うのは久しぶりに美しい時間だった。ただ会場がコンパクトなので,展示はぎっしり感。

 「英伸三 映像日月抄 そのときのあのこと あのときのそのひと」というタイトルの写真展は,その通りにノスタルジックな内容。しかし,美しいプリントには瑞々しい強さが漲り,会場全体に緊張感をもたらす。

 展覧会のイメージになっている波打ち際ではしゃぐ少女たちの遠景は,「集団就職の若者」の1枚で,彼女たちはふるさとの海に別れを告げているのだった。写真家の眼が捉えたこの海の光は,若者たちの前途を願っているだけではないだろう。その未来に横たわるそれぞれの不安や故郷との別れの哀しみが,寄せては返す波となって,今ここに生きる私の眼に届いて胸が熱くなる。

 英伸三はまったく未知の写真家だった。「町工場」シリーズの工業製品のイメージも,中国を撮影したイメージもとてもよかった。知らない写真家がまだまだいっぱいいるなあ,もっともっと見てみたいと思った冬の午後。

 ほとんど葉を落とし,わずかに紅葉が残る。五島美術館では「古染付と祥瑞 愛しの青」展を見る。古染付の方が余白が多くて好みだけど,祥瑞は「しょんずい」という響きが好き。タイトル通り,これでもかという美しい青の器の数々を堪能。 
 渋谷ヒカリエホールでは「ハンス・ウェグナー展 至高のクラフツマンシップ」展を見る。このホールは展覧会専用ではないと思うけど,ドラマチックに演出されていて楽しい。ただ,フライヤーが小さくてぺろっとしてて,文字も読みにくい。そのせいで展覧会というよりは家具の展示会みたいな印象を受けてしまう。ささいなことなんだけどね。右の写真はウェグナー邸のミニチュアの内部の一部。本のタイトルまで芸が細かい!

2025-12-11

読んだ本,「他人の顔」(安部公房)

 「他人の顔」(安部公房 新潮文庫 1964・2013改版)読了。安部公房は代表作と呼ばれるものは大体読んだつもりでいたが,この長編は未読だった。きっかけはNHKのクラシック番組。この小説の映画音楽を武満徹が手掛けていたのを知ったことだった。映画の脚本も安部公房自身が手掛けたということ。不穏なワルツに心惹かれる。

 事故で自分の顔を喪失した男が,「他人の顔」を仮面に仕立て,失われた愛を取り戻す目的で妻を誘惑する。その長く暗い過程の中で男が行う,人間存在についての考察は,とりも直さず読者に,「顔」とともに生きる人間の存在とは,そして行為とは何かを考えさせる導きとなる。

 思考の羽搏きは幅広く,肖像画とは,フランケンシュタインとは,能面の美とは,ととりともなく広がっていくようでありながら,小説全体の中で無意味な細部など何一つない。深く印象に残った細部をいくつか。

 「肖像画が普遍的な表現として成り立つためには,まずその前提として,人間の表情に普遍性が認められなければならないだろう。(略)その信念を支えるものは,むろん,顔とその心が一定の相関性をもっているという,経験的な認識にほかなるまい。もっとも,経験がつねに真実であるという保証は,どこにもない。さりとて,経験がつねに嘘のかたまりだという断定も,同様に不可能なのだ。」(pp.64-65)

  (フランケンシュタインの小説について)「ふつう,怪物が皿を割れば,それは怪物の破壊本能のせいにされがちなものだが,この作者は逆に,その皿に割れやすい性質があったためだと解釈しているのである。怪物としては,ただ孤独を埋めようと望んだだけだったのに,犠牲者の脆さが,やむなく彼を加害者に仕立て上げたというわけだ。(略)もともと怪物の行為に,発明などありっこなかったのだ。彼こそまさに,犠牲者たちの発明品にほかならなかったのだから…」(p.89)
 
 (デパートの能面展の会場で,能面のおこりは頭蓋骨だったのでは,と思い至り)「初期の能面作者たちが,表情の限界を超えようとして,ついに頭蓋骨にまで辿り着かなければならなかったのは,一体どういう理由だったのか? おそらく,単なる表情の抑制などではあるまい。(略)普通の仮面が正の方向へ脱出をはかったのに対して,こちらは負の方向を目指しているというくらいのことだろう。容れようと思えば,どんな表情でも容れられるが,まだなんにも容れていない,空っぽの容器…」(pp.100-101)

  映画も未見だが,結末が小説とは異なるということなので,見てみたい。映画音楽について武満徹が何か言及しているかと思い,随筆集を繰ってみた。「他人の顔」に直接言及したものは見つけられなかったが,「時間の園丁」(1996)に「映画音楽 音を削る大切さ」,「エピソード―安部公房の『否(ノン)』」の二編,「遠い呼び声の彼方に」(1992)に「仲代達矢素描」の一編を見つけて,読む。