2025-12-11

読んだ本,「他人の顔」(安部公房)

 「他人の顔」(安部公房 新潮文庫 1964・2013改版)読了。安部公房は代表作と呼ばれるものは大体読んだつもりでいたが,この長編は未読だった。きっかけはNHKのクラシック番組。この小説の映画音楽を武満徹が手掛けていたのを知ったことだった。映画の脚本も安部公房自身が手掛けたということ。不穏なワルツに心惹かれる。

 事故で自分の顔を喪失した男が,「他人の顔」を仮面に仕立て,失われた愛を取り戻す目的で妻を誘惑する。その長く暗い過程の中で男が行う,人間存在についての考察は,とりも直さず読者に,「顔」とともに生きる人間の存在とは,そして行為とは何かを考えさせる導きとなる。

 思考の羽搏きは幅広く,肖像画とは,フランケンシュタインとは,能面の美とは,ととりともなく広がっていくようでありながら,小説全体の中で無意味な細部など何一つない。深く印象に残った細部をいくつか。

 「肖像画が普遍的な表現として成り立つためには,まずその前提として,人間の表情に普遍性が認められなければならないだろう。(略)その信念を支えるものは,むろん,顔とその心が一定の相関性をもっているという,経験的な認識にほかなるまい。もっとも,経験がつねに真実であるという保証は,どこにもない。さりとて,経験がつねに嘘のかたまりだという断定も,同様に不可能なのだ。」(pp.64-65)

  (フランケンシュタインの小説について)「ふつう,怪物が皿を割れば,それは怪物の破壊本能のせいにされがちなものだが,この作者は逆に,その皿に割れやすい性質があったためだと解釈しているのである。怪物としては,ただ孤独を埋めようと望んだだけだったのに,犠牲者の脆さが,やむなく彼を加害者に仕立て上げたというわけだ。(略)もともと怪物の行為に,発明などありっこなかったのだ。彼こそまさに,犠牲者たちの発明品にほかならなかったのだから…」(p.89)
 
 (デパートの能面展の会場で,能面のおこりは頭蓋骨だったのでは,と思い至り)「初期の能面作者たちが,表情の限界を超えようとして,ついに頭蓋骨にまで辿り着かなければならなかったのは,一体どういう理由だったのか? おそらく,単なる表情の抑制などではあるまい。(略)普通の仮面が正の方向へ脱出をはかったのに対して,こちらは負の方向を目指しているというくらいのことだろう。容れようと思えば,どんな表情でも容れられるが,まだなんにも容れていない,空っぽの容器…」(pp.100-101)

  映画も未見だが,結末が小説とは異なるということなので,見てみたい。映画音楽について武満徹が何か言及しているかと思い,随筆集を繰ってみた。「他人の顔」に直接言及したものは見つけられなかったが,「時間の園丁」(1996)に「映画音楽 音を削る大切さ」,「エピソード―安部公房の『否(ノン)』」の二編,「遠い呼び声の彼方に」(1992)に「仲代達矢素描」の一編を見つけて,読む。

0 件のコメント: