事故で自分の顔を喪失した男が,「他人の顔」を仮面に仕立て,失われた愛を取り戻す目的で妻を誘惑する。その長く暗い過程の中で男が行う,人間存在についての考察は,とりも直さず読者に,「顔」とともに生きる人間の存在とは,そして行為とは何かを考えさせる導きとなる。
思考の羽搏きは幅広く,肖像画とは,フランケンシュタインとは,能面の美とは,ととりともなく広がっていくようでありながら,小説全体の中で無意味な細部など何一つない。深く印象に残った細部をいくつか。
「肖像画が普遍的な表現として成り立つためには,まずその前提として,人間の表情に普遍性が認められなければならないだろう。(略)その信念を支えるものは,むろん,顔とその心が一定の相関性をもっているという,経験的な認識にほかなるまい。もっとも,経験がつねに真実であるという保証は,どこにもない。さりとて,経験がつねに嘘のかたまりだという断定も,同様に不可能なのだ。」(pp.64-65)
(フランケンシュタインの小説について)「ふつう,怪物が皿を割れば,それは怪物の破壊本能のせいにされがちなものだが,この作者は逆に,その皿に割れやすい性質があったためだと解釈しているのである。怪物としては,ただ孤独を埋めようと望んだだけだったのに,犠牲者の脆さが,やむなく彼を加害者に仕立て上げたというわけだ。(略)もともと怪物の行為に,発明などありっこなかったのだ。彼こそまさに,犠牲者たちの発明品にほかならなかったのだから…」(p.89)
(デパートの能面展の会場で,能面のおこりは頭蓋骨だったのでは,と思い至り)「初期の能面作者たちが,表情の限界を超えようとして,ついに頭蓋骨にまで辿り着かなければならなかったのは,一体どういう理由だったのか? おそらく,単なる表情の抑制などではあるまい。(略)普通の仮面が正の方向へ脱出をはかったのに対して,こちらは負の方向を目指しているというくらいのことだろう。容れようと思えば,どんな表情でも容れられるが,まだなんにも容れていない,空っぽの容器…」(pp.100-101)
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