2012-08-31

読んだ本,「思索の遊歩道」(串田孫一)

 「思索の遊歩道」(串田孫一著;春秋社, 1996)を読みました。串田孫一(1915-2005)の文章はわかりやすいのだけれど軽妙というわけではなく,話題が身近なものであっても個物にこだわるわけではなく,読み終えて著者に対する清々しい敬意が余韻として残りました。

 20編の短い随筆のうち,「幼女の届け物」は,かつて「お届け物です」と言って団栗や壊れた玩具を届けにきた近所の女の子の話を端緒に,話題は届け物の栄螺(さざえ)をどうやって食べようかと,本山萩舟という作家の料理随筆「飲食事典」へと展開します。

 何とかその本を手に入れたいと思っていたころ,玄関の扉をとんとんと叩く音がして開けてみると,あの幼女が四角い紙包みを手に立っていて「お届け物です」と言う。開けてみると,誰かがよく使った「飲食事典」だった,という夢を見た,という話。幼き人へのまなざしや,「お届け物」という風習への郷愁や,一冊の古書に対する愛情(=執着)などなど,とても心地よい一編でした。

 この随筆集は京都の古書店「アスタルテ書房」で買い求めました。ここは表通りに看板などのないマンションの一室が店舗になっていて,ドアノブをがちゃりと回して扉を開け,靴を脱いで店内に入ります。幻想文学・耽美派・シュルレアリスムなどが揃う古書店です。澁澤龍彦や中井英夫に夢中になった時期があったので,棚を眺めているだけでも楽しい時間を過ごしました。本を買うと,金子国義デザインの包装紙をかけてくれます。愛嬌たっぷりの蔵書票もはさんでくれます。

2012-08-29

2012年8月,京都(2),下鴨神社古本まつり

 下鴨神社の糺(ただす)の森で毎夏開催される「納涼古本まつり」にでかけてきました。糺の森とは下鴨神社の境内に広がる原生林で,東京ドーム3個分の広さがあるとのこと。(東京ドームでたとえるのがなんとなくおもしろい。)賀茂川と高野川の合流地点にあたり,4本の小川が流れるうっそうとした森の中にずらりとテントが並びます。雨のあがった真夏の一日の森の中は,強烈な湿気。片手にうちわが古書さがしの定番スタイルのようです。

 ざっと眺めて掘り出し物があったらいいな,くらいの気持ちで最初のテントをのぞくと,いきなりユリイカ1994年6月号「島田雅彦特集」に遭遇。中上健次の「優しいサヨクのための嬉遊曲」評や,亀山郁夫の「島田雅彦とドストエフスキー」などの論考が掲載されていて即買い。300円。はずみがつきました。

 次々とテントをのぞいて購入し,両手にずっしりの収穫に大満足です。陶磁大系「タイ ベトナムの陶磁」(平凡社),「批評の小径」(吉田秀和著 日本書籍),「微笑を誘う愛の物語」(ミラン・クンデラ 集英社)などなど。
 

2012-08-28

2012年8月,京都(1),高麗美術館

 京都も暑い夏でした。高麗美術館で「高麗青磁の精華 心にしみ入る翡色の輝き」展を見てきました。京都市北区,「賀茂川中学前」というバス停からすぐのところにあるこじんまりとした美術館です。

 高麗青磁も朝鮮白磁も,朝鮮の「やきもの」はとても魅力的です。昨年,千葉市美術館で開催された(大阪東洋陶磁美術館開催の巡回展)「浅川巧生誕百二十年記念 浅川伯教・巧兄弟の心と眼-朝鮮時代の美」展では白磁をまとめて見ることができたので,今回は高麗青磁の逸品との出会いを楽しみに出かけました。
 
「翡色」は翡翠の色。優美な,しかし威厳をたたえた曲線が美しい梅瓶や,雲間に遊ぶ鶴を象嵌で施した皿を前にすると,「心にしみ入る」色とはこういう色のことか,と眼が悦びます。白磁や粉青沙器,ほかにも朝鮮時代の絵画や工芸の名品も静かに並び,真夏の喧騒をしばし忘れる午後でした。

 展示室のゆったりとしたソファの脇に,室生犀星の古書が二冊置いてありました。「李朝夫人」(村山書店,1957)と「陶古の女人」(三笠書房, 1956)。いずれも高麗青磁をめぐる短い随筆が収められていて,しばし活字の世界へ。青磁にまつわる随筆ならばきっと数多くありそうですが,美しい展示物に寄り添うようにひっそり置かれたこの二冊の古書もまた,心にしみ入る色をしていました。

2012-08-27

2012年8月,金沢(2),アンティークフェルメール

 金沢に「フェルメール」というアンティークショップがあって,立ち寄るたびに心ひかれるものと一つ二つ出会います。今回はイギリスの古い木の箱を一つ,求めました。

 横12センチ,縦7センチくらいの小さいもの。切手を入れるための箱だろうということ。箱の中にはなるほど,仕切り板があって,切手をしまっておくのにちょうどよさそう。この箱の持ち主だった人は,手紙や葉書をしたためてからこの箱の前に立って,蓋を開けて,切手を取り出して,そしてそれを貼って投函したのでしょう。誰にどんな便りを?

上蓋の表面にはQui Invidet Minor Estと彫られています。調べてみるとラテン語で,He who envies another is his inferior.という意味だそう。「他人をうらやむのは卑しいことだ」くらいでしょうか。英国ケンジントンにあるEdward Corbould(1815-1905)という画家の生家の外壁にも同じ文言の意匠が施されていることがネットで判明しました(なんて便利な世の中!)が,出典などはよくわからずじまいです。

 この木箱を店主は「亜麻仁(あまに)油」で磨いてくれて,木の艶がとてもよい感じになりました。自ら英国やオランダに買い付けに行く店主は博識で,話すのがとても楽しみ。本の話題も刺激的です。何冊か薦めてもらいました。「天職の運命 スターリンの夜を生きた芸術家たち」(武藤洋二著 みすず書房),「パンとペン」(黒岩比佐子著 講談社)などなど。 

2012-08-26

読み返す本,「禅と日本文化」(鈴木大拙)

 書棚の奥の方に「禅と日本文化」(岩波新書)を見つけました。かなり黄ばんでいます。高校の国語の授業で先生が紹介してくれて購入した記憶があります。かなり背伸びしていたな,と思いながらページをめくってみます。


 この本は鈴木大拙が英語で著したZen Buddhism and its Influence on Japanese Culture(1938)の前編6章に別の1章を加えて日本語に訳されたもの。「禅の予備知識」「禅と美術」「禅と武士」「禅と剣道」「禅と儒教」「禅と茶道」「禅と俳句」の7章です。

 読み通した記憶さえなかったのですが,意外なことにところどころに鉛筆の傍線が。茶道部に入っていたので,特に「禅と茶道」の章を読み返すと,過去の自分に向き合うようです。

 「禅の教義は,形態を超越して精神を把握することなのであるが,それは,われわれに自分たちの住む世界は特殊諸形態の世界である事実,精神は形を媒介としてのみ表現される事実を想起させることをけっして忘れぬ。」(同著P125より引用)という部分は赤鉛筆で囲んであって,茶道の作法を覚えるのに必死だったころを思い出します。
 
 相変わらず,読み通して理解できるかはかなり怪しいですが,年を重ねての再びの出会いをうれしく思いつつ,傷んだ表紙に大切に紙をかけて読み返すことにします。

2012-08-25

2012年8月,金沢(1),鈴木大拙館

 真夏の一日,金沢市に昨年10月開館した鈴木大拙館に行ってきました。谷口吉生の設計です。「大拙についての理解を深めるとともに,来館者自らが思索する場として利用することを目的に開設されました」(同館チラシより)ということで,館内には「展示空間」「学習空間」「思索空間」があり,館の外には「玄関の庭」「路地の庭」「水鏡の庭」があります。

 鈴木大拙(1870-1966)は金沢に生まれた世界的な仏教哲学者。初めて読んだ著作の「禅と日本文化」(岩波新書)は英語で書かれたものの日本語訳です。かなり前に一読したものの,内容を理解できたとは思えず,今では何が書いてあったかほとんど思い出せませんが,照明の抑えられた静かな回廊に導かれて展示空間へ。

 展示空間には大拙の著作がずらりと並び,書や写真などが展示されていますが,それぞれにキャプションの類は一切ありません。「見て,そして感じてほしい」ということのようです。部屋の片隅にタッチパネル式で読める解説は用意されています。

 自由に著作を手に取ることができる学習空間を経て,水鏡の庭に面した思索空間へ。大拙の思想を具現化した空間で,静かに時を過ごしました。思索にふけるというよりは,ぼんやりとですが。(これは個人の資質の問題。)池の中央では3分に1回,丸い水紋が広がる仕掛けがあって,周囲の石にその波紋が反射して幻想的です。

 大拙が禅僧・仙厓の作品に影響を受けて,仙厓論を著したという経緯は来館して初めて知りました。9月には「仙厓と大拙」という展覧会が開催されて,「○△□(丸・三角・四角)」(出光美術館蔵)も展示されるそうです。三角の天窓や丸い水紋など,建築家の仕掛けにも気付くと興味が広がります。

 最後に,大拙のことば‐「最も有効な行動は,ひとたび決心した以上,振り返らずに進むことである。」(「禅と日本文化」(岩波書店)よりの引用。同館リーフレットより。)