2014-02-18

2014年2月,東京渋谷,ハイレッド・センター 直接行動の軌跡展

 松濤美術館にでかけて「ハイレッド・センター 直接行動の軌跡展」を見てきました。リニューアルオープンということですが,外観も展示室も見た目にはほとんど変化はわかりません。空調設備などが一新されたそう。外部吹き抜けの噴水はそのままで,なんとなくほっとします。この建物の美しさは「水」の動きがあって完成していると思うので。
 展示室に足を踏み入れると,そこは「50年前の前衛」を記録写真や資料によって追体験する場となっています。観客は過去の出来事を,未来である2014年の現在から傍観するのみです。
 
 中西夏之のコンパクト・オブジェや赤瀬川原平の偽千円札の本物(!)などは当時の姿のまま展示されているのですが,平穏な市民の日常を撹拌する彼らの行動は時代とともに成立したものであって,この展示を見た今の私の日常が「撹拌」されるとはちょっと考えられない。
 
 その点は,近年見た展覧会でもたとえば「具体」展「フルクサス」展など,芸術の運動に焦点をあてたものであれば,現代からの眼差しであったり,共感であったり,直接的な関係を体感できますが,この展覧会はかなり異質な印象を受けます。
 
 なぜだろう,と考えながら、やはりイベント(今ならパフォーマンス)の持つ身体性,一回性ということにたどり着く気がしてきます。いみじくも私が出かけた日には映像作家の飯村隆彦氏による講演とフィルムパフォーマンスの開催日で,氏はハイレッド・センターのイベントも再現してほしい,と言っていました。たとえば音楽は楽譜があれば誰でも再現(再演)することが可能だ,「パフォーマンスは肉体から解放されるべきだ」と。
 
 うーん,となる。この過激な運動と,楽譜という言語を持つ音楽を並べて語ってよいものだろうか?それに肉体・身体をキーワードにパフォーマンスを考えるなら,畢竟,舞踊や演劇へと話は展開していくはず。
 
 これはちょっと手に負えないなとか,展示されていた後年の高松次郎の影の作品や,中西夏之のフラクタルな印象の抽象画はやはり好きだな,とかとりとめなく考えたところで,はっとします。
 
 この展覧会は,少なくとも一人の凡庸な観客の思考を撹拌している!ハイレッド・センターが50年後の未来に仕掛けた罠にまんまとはまった気分で家路につきました。晟一

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