Huis Clos「出口なし」は「蠅」に次ぐサルトルの二番目の戯曲ということ。サルトルの著作はほとんど読んだことがない。「実存主義」がこの戯曲の通奏低音だとしても,それをああ,なるほどと理解できるわけではない。と,開き直ってしまったらそこでおしまいなので,舞台を見た翌日にとにかく図書館へ直行。
筑摩世界文学大系89(1977)で伊吹武彦訳の「出口なし」を読む。三段組で22ページの短い作品だが,舞台を見ていなかったら内容を理解するのにさぞかし苦労しただろう,と思う。舞台で印象的だった場面のいくつかを活字で追ってみる。
(エステル)「あたし,おしゃべりをする時は,自分の姿がどれか一つの鏡に写るようにしたもんだった。あたしは,しゃべりながら,自分のしゃべるのを見ていたんだ。みんながあたしを見ているように,あたしは自分を見ていたんだ。すると,頭がいつまでもはっきりしていた。私の口紅!きっと歪んでついている。いつまでも,いつまでも鏡なしでなんか,いられやしない。」(p.291より引用)
イネスが他の二人に投げかける叫び声は,舞台では序盤に響いたが,戯曲では最終盤に登場する。(イネス)「見てるわよ,見てるわよ。あたしはたったひとりで群衆なのよ。群衆よ,ガルサン。」(p.305)
そして,その叫び声を引き受けるようにガルサンの長い独白が続く。(ガルサン)「ぼくを食いつくすみんなの視線…ふん,二人きりか。もっとたくさんだと思っていた。じゃ,これが地獄なのか。こうだとは思わなかった…二人ともおぼえているだろう。硫黄の匂い,火あぶり台,焼き網…とんだお笑い草だ。焼き網なんかいるものか。地獄とは他人のことだ。」(p.305)
「地獄とは他人のことだ」l'enfer, c'est les Autresと終わる台詞のあと,劇はやはりガルサンの「よし,続けるんだ」Eh bien, continuons.で終わる台詞で幕を下ろす。
首藤康之が舞踊公演に名付けたOTHERSというタイトルの意味がこの台詞に集約されていることが理解できたものの,サルトルの戯曲そのものは私にはとてもハードルが高い。「劇作家サルトル」(山縣熙著,作品社 2008)の第2章「出口なし」(pp.42-59)が,とてもわかりやすく理解の入口へと導いてくれた。
首藤康之の肉体を通して,私たち観客はガルサンという「死者」の叫びを聴く。私たちは「地獄で生き続けること」を選択するのか,扉の外へ出ていくことを選択するのか。ガルサンは「死者」だ。しかし私たちは生きるものとして。
0 件のコメント:
コメントを投稿