年末の多忙と張り切りすぎた大掃除のせい(?)でお正月はすっかりダウン。パラパラと文学界1月号の頁をめくって過ごす。 年末の新聞の文芸評で多和田葉子の短編が紹介されていたのがとても興味深かったので,書店で求めておいたもの。
多和田葉子「文通」は時間と空間と「その人の存在」のすべてがくるくると回転して,そのすべてが不確かな渦へ突き進んでいく不思議な小説で,それはまさに多和田葉子の世界そのもの。彼女の小説を読むときのいつもの興奮がこの短い短編にぎゅっと凝縮されているよう。
主人公である陽太の文通相手である,血のつながらないいとこの浮子。恋人であるらしい舟子と,高校時代の同級生の輪田。この小説の中に確かに存在していたはずの彼らは,小説を読み終えたとき,私の眼の前に存在する「その人」として存在している(ような錯覚を覚える)。
人の苗字を思い出そうとするときの言葉遊戯や,「遠いという感じは,猿がバイクに乗っているよう」などなど,正月ボケの頭をがつんとやられた。読書の至福を悦ぶ。
松浦寿輝「穴と滑り棒の謎あるいは老俳人はいかにしてマセラティ・グランカブリオを手に入れたのか」もいかにも松浦ワールド全開の短編。というか,作家の長編と何度も格闘してきた読者としては,短くてもこんな世界を味わえるのか,とちょっと憮然とした感覚を味わった。
どちらの小説にも「死」はその姿を確とは現さない。しかし,存在の不確かさを活字として読み進めた後で残るのは,畢竟,生と死の境界の曖昧さ,不確かな連続性への感慨といったものではないか。今年も正月に用意した白い百合の花の強い香が私の周りを漂う。
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