劇作家平田オリザの名前と著作は,同時代に生きていて知識としてはよく接してきた気がするが,実際に舞台を見たのは今回が初めてだ。駒場アゴラ劇場に「ソウル市民」を見に行った。
きっかけは飯田橋文学会の文学インタビューの平田オリザの回に参加したこと。著作3冊が事前に提示されるのだが,そのうちの一つが「ソウル市民」「ソウル市民1919」の舞台だった。それはそうだろう,劇作家に「あなたの代表作は」と問うたのだ。
「ソウル市民」は1989年初演された「現代口語演劇の出発点」となった平田オリザ代表作の再演ということ。幸運にも席を取れた。見終えて感じたことはまず,「間に合ってよかった」ということ。平田演劇を知らずに過ごしてしまうところだった。そしてまた,「再演」ということの意味も考えている。
今では何の不自然も感じない「現代口語演劇」の舞台に違和感なく没入できる。しかし,そこで繰り広げられているのは「人が人を支配する社会」だ。劇団のフライヤーには「押し寄せる植民地支配の緊張とは一見無関係な時間が流れていく中で,運命を甘受する「悪意なき市民たちの罪」が浮き彫りにされる」とある。
いくつもの印象に残る逸話の中で,文通相手の恋人の来訪を待ちわびる次女の無垢で残酷な自意識が痛々しい。
著作として「東京ノート」の脚本も読んでみた(ハヤカワ演劇文庫 2004)。登場人物たちの会話を活字で読む行為は,オーケストラの五線譜を読む行為にも似ている。この舞台は1994年初演ということ。美術館の片隅のロビーが舞台なので,個人的に親近感を覚えて読み始めたが,穏やかな時間の裏でヨーロッパでは戦火が広がり,多数の美術品が疎開してきている。こんな会話の先に,答えなどない。
木下「フェルメールの絵ってさ,みんな人が,窓の方向いてんだって。」野坂「うん。」木下「知ってた?」野坂「うん。」木下「あ,そう。」野坂「だって,見れば判るじゃない。」木下「あぁ,そうか。」(略)木下「あれは,画家と一緒に人を見てる気がするでしょ。」野坂「だまされましたね,うまく。」木下「えぇ?」野坂「あのね,絵を見て綺麗だなと思うのは何故でしょう?」木下「え?」野坂「本当の景色とかね,本物の人間よりも,絵を見て綺麗だなって思うのはどうしてでしょう?」木下「さぁ、」野坂「…」木下「どうして?」野坂「さぁ」木下「なんだよ。」(略)(pp.191-192より)
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