2019-03-09

読んだ本,「ある男」(平野啓一郎)

 
   平野啓一郎の「ある男」(文藝春秋 2018)を読了。読み終えて,主人公は城戸章良「だった」のだろうか,と思わず序文を読み返すという奇妙な体験をした。ストーリーは,弁護士の城戸が,戸籍を交換して別人として生きて死んだ「X」の正体を追うというものだが,過去と未来,在日の民族意識,愛とは芸術とは,と羅列していくときりがないほどの内容が詰め込まれている。
 
 いつもながらの平野啓一郎の文体で,登場人物に作家の思索を語らせる。巧みな展開に,寝る間も惜しんであっという間に読み終えた。そして,ひどく疲弊した。私はこの数日間,何を読んでいたのか。今となってはそれは「私という読者の過去」の一部分だ。
 
 平野啓一郎はなぜ,まるで城戸も「X」も実在の人物であるかのように読者に刷り込む「序」を書いたのか。そもそも城戸という主人公の「小説」はどこに存在しているのだろう。うまく言葉にできない。ただ,この作家の背中を私は追い続けるだろうという確信だけが今,ある。城戸が「X」を追いかけたように?
 
 一番印象に残ったのは,ストーリーとは関係のないこんなくだり。「城戸は,広告表現の芸術性といった通念を脳裏に過ぎらせた後に,寧ろ,芸術表現の広告性をこそ議論すべきなのではないか,と考えなおした。(略)芸術とはその実,資本主義とも大衆消費社会とも無関係に,そもそも広告的なのではあるまいか? 例えば,燃えさかるようなひまわりの花瓶がある。草原を馬が走っている。寂しい生活がある。戦争の悲惨さがある。自ら憎悪を抱えている。誰かを愛している。誰からも愛されない。…すべての芸術表現は,つまるところ,それらの広告なのではないか?」(pp.195-196)

0 件のコメント: