2021-01-17
2021年1月,東京恵比寿,「アイヌモシリ」
読んだ本,「ラスト・ストーリーズ」(ウィリアム・トレヴァー)
初めてのトレヴァー読了。すごい体験だったとしか言いようがない。「ラスト・ストーリーズ」(ウィリアム・トレヴァー 栩木伸明訳 国書刊行会 2020)の余韻にいつまでも浸っている。
イーユン・リーの「理由のない場所」を読んだとき,彼女がウィリアム・トレヴァーを愛読していると知り,未読のその作家をぜひ読んでみたいと思ったのだった。2016年11月に亡くなったトレヴァーの遺作が昨年刊行された「ラスト・ストーリーズ」である。10篇の短編が収められている。どの物語も謎めいた空白を内包し,読者はそこに足を掬われないように注意深くあらねばならない。物語の中に生きる人たちは,私たちの毎日と同じように不確かで不明瞭な毎日の中に生きている。トレヴァーの物語を読む行為は,自分の生を見つめる行為と同義だと思えてくる。
「ミセス・クラスソープ」という一遍は,金目当てで結婚した年上の夫を亡くしたミセス・クラスソープと妻に先立たれたエサリッジの物語。ミセス・クラスソープは未亡人ライフを楽しもうと企むが,やがてそのレールは歪み始める。一人息子の存在と,母としてのミセス・クラスソープの複雑な愛情が行き着く先が語られたとき,思わず息を呑む。
未亡人暮らしを楽しむためにかつて暮らしたイーストボーンに滞在したときの一節。「彼女はイーストボーンの町をあてもなく歩き回りながら,学校時代の友だちにばったり出会うのを期待していたが誰にも出会えず,かえってよかったと思い直した。ひとりでいるほうが人生についてより深く考えることができるから。」(p.89)
2021-01-04
読んだ本,「イエスの幼子時代」「イエスの学校時代」(J.M. クッツェー)
クッツェーを読むのは「遅い男」以来だから7年ぶり?! ページを繰りながら「恥辱」「遅い男」の主人公たち(デヴィッドとポール)の姿が脳裏に蘇ってくる。六十代ぐらいと思しきシモンは血縁のないダビードをわが子とし,彼に母親イネスを見つける。特異な才能を持つダビードを特殊学校へ入れたくないシモンとイネスはノビージャを逃れて(ここまで「幼子時代」)、エストレージャという街へやってくる(ここから「学校時代」)。
訳者はあとがきでこの小説を「疾走するエンターテインメント不条理小説」と呼んでいる。奇妙な聖家族の物語かと思いきや,その名も「ドミトリー」というダンスアカデミー(ダビードが通う)の門番が登場して物語はミステリーのような展開を見せる。門番はもちろんカフカの「掟の門前」がモチーフだ。彼は「カラマーゾフの兄弟」もしくは「罪と罰」よろしく,重大な罪を犯すのだ。しかし,最後まで「なぜ」かは書かれない。
最後まで謎は解けないが,シモンの精神の辿る過程は魅力的で(訳者はそれをあとがきで「成長」と呼んでいる)物語の最後の場面には感動すら覚える。シモンは踊る。目眩がしながらも腕を伸ばし目を閉じて,踊る。
ドミトリーを慕うダビードの終わりのない「どうして」に答えたあとのシモンの独白。「ダビードをイネスのもとに帰し,また自分の部屋に帰りつくと,恐ろしい霧がまといついてくる。グラスに一杯ワインを注ぎ,またもう一杯。救われるには,自分で自分を救うしかないんだ。あの子はわたしに手引きを求めてくるが,口先だけの,害にしかならない戯言以外になにを与えてやれるだろう? 自恃か。このわたしも自分に頼るしかないなら,どんな救済の望みをもてるというのだろう? なにからの救済だろう? 無為か。あてのない人生か,頭部に銃弾を受けることか。」(p.274)