2024-12-17

読んだ本,「朝と夕」(ヨン・フォッセ)


 ヨン・フォッセ「朝と夕」(伊達朱美訳 国書刊行会 2024)読了。ヨハネスという一人の男が生まれ,そして人生を終える。第一部ではその生が,第二部ではその死が描かれる。端正な文章は終始,句点を持たない。人の一生とは連綿と続く時間の流れなのだと思わせる。

 ヨン・フォッセは昨年のノーベル文学賞を受賞したノルウェーの作家。彼の信仰の軌跡は訳者あとがきに詳しいが,著作を読む上で知識として必要だと通読後に痛感した。

 第二部では,年老いたヨハネスが先に逝った友や妻と出会う。時間や場所が混沌とした状況の中,ヨハネスの意識ははっきりしているが,傍観者としての読者は不穏な感覚ともに頁をめくることになる。そしてヨハネスがペーテルに導かれて旅立つとき,読者はああ,そういうことだったのかと腑に落ちると同時に,言葉を失うのだ。彼らの向かう世界と同じように。

 「俺たちふたりはもうすぐ船に乗って旅立つんだ,と彼は言った/旅立つってどこへ,とヨハネスは言った/なんだ,まだ生きてるみたいな言い方だな,とペーテルが言った/どこにも行かないのか,とヨハネスは言った/俺たちが向かうのは,場所じゃない,だから名前もない,とペーテルは言った/そこは危険なのか,とヨハネスは言った/危険じゃないよ,とペーテルは言った/危険というのは言葉だ,そこには言葉がないんだ,とペーテルが言った」(pp.136-137) 

2024-12-12

2024年12月,横浜馬車道,「仮面絢爛」展


 久しぶりに馬車道へ。神奈川県立歴史博物館で12月8日まで開催されていた「特別展 仮面絢爛」を見てきました。「中世音楽と芸能があらわす世界」という副タイトル。中世仮面を通して,「仮面の背後にある地域に息づく豊饒な音や音楽の存在を発見し,またこうした文化を利用しながら,地域を支配しようと試みた領主たる武士たちの姿をも捉えていきます」(チラシより)という展覧会です。

 構成が序「音と音楽のあわい」,破「移動する中世武士と音楽文化」,急「地域の民俗芸能で甦る仮面たち」と鑑賞の手立てがとてもわかりやすく提示されています。舞楽は何度か舞台で拝見したことがあるので「納曾利」や「陵王」の面など,舞台の記憶が映像として蘇る一方,地域の神社で神事として舞われる映像を思い浮かべるのが楽しい。

 そして圧巻だったのは千葉の迎接寺の鬼舞に使われる多彩な仮面群。その中の「幽霊」面は,身に付けると三年以内に死ぬという伝承があるのだそう。会期終了も間近で会場内はたくさんの観客がいましたが,人が少ないときにこの面と対峙したら,さぞ恐怖だっただろうな,と思ったのでした。

 充実した関連文献リストも配布されていて,これは嬉しい。読んでみたい本がたくさんあります。神奈川県立歴史博物館は改修のためしばらく閉館になるそう。

2024-12-02

読んだ本,「石蹴り遊び」(コルターサル)

 コルタサル(この本の表記はコルターサル)の「石蹴り遊び」の第一の書物を読了。(集英社版ラテンアメリカの文学8,土岐恒二訳) 第56章までを順序通りに読むのが第一の書物,第73章から始まって,指定された順序にしたがって読むのが第二の書物で全部で155章まである。作家は第一の書物の読み方として「読者は以後の続編をなんの未練もなく放り出してもかまわない。」と書いている。

 第二の書物がきっとこの本の眼目なのだろうと思いつつも,未練なく放り出してよい,というならここでギブアップか,まだ迷っている。コルタサルは短編だな,というのが実感。アルゼンチンを離れてパリに留学したオリベイラとラ・マーガの恋模様が「向こう側から」で描かれ,ブエノスアイレスに戻ったオリベイラと友人たちの日々が「こちら側から」に描かれる。

 終盤になって,日常生活の舞台がいつしか精神病院に移っている不可思議さ。これを不条理という言葉で片づけてよいのだろうか。読者は「石けり遊び」の枡目を右往左往しながら,どこへ向かってどの頁を繰るのだろうか。オリベイラの独白から。

 「しかし別の生き方をする必要がありそうだ。それでは別の生き方をするとはどういう意味か? たぶん不条理を切り捨てるために不条理に生きること,勢い余って他者の腕の中に飛びこむ結果になるほどの激しさで自分自身の中に飛びこむことだろう。そうだ,たぶん愛だ,でもその他者性(otherness)は、一人の女が持続している間しか,それもただその女に関わりのあることにおいてしか,持続しない。根本においては他者性なるものは存在せず,せいぜい心地よい共存性(togetherness)があるだけだ。確かにそれだけでもちょっとしたものではあるが…」愛,実在化のための儀式,存在の譲渡者。そしてそれゆえにこそ彼は,おそらく最初に考えておくべきだったことをいま考えていたのだ―自己を所有せずして他者性の所有はない,とすれば誰が真に自己を所有し得るのか? (p.94) 

2024年11月,東京上野毛・千駄ヶ谷,「古裂賞玩」・「宝生宗家展」

 いつの間にか12月になっている。一日はゆっくりと流れていくが,月日の流れはあっという間だ。私は動く歩道の上で日がな呆けて過ごしているのだろうか。

 まだ体調に波があり,あまり出かけていない。11月にでかけた展覧会を2つ,忘備録として。上野毛の五島美術館で「古裂賞玩 舶来染織がつむぐ物語」展。館蔵品だけでなく,東博や根津や徳川,MIHO MUSEUMなどなどの逸品が勢ぞろい。名物裂を手前に,書画や法衣などが壁面に展示されて,美しい古裂の息遣いを立体的に楽しむ。茶入れと仕覆はこれ以上の組み合わせはない,というがごとくどれも完璧な美しさだ。

 国立能楽堂は11月は企画公演の「特集・源氏物語」の第1日,邦楽「空蝉」「住吉」と宝生流の復曲能「空蝉」を拝見。能「空蝉」は廃曲になっていたというのはそれなりに理由があったのだろうと思えてしまう。今一つドラマチックな展開がないまま,それでも安田登師のワキを是非拝見したかったので,思わず力が入る。

 資料展示室の「宝生宗家展」はその充実した展示の迫力に唖然となる。能面の美しさと怖さ。どれだけ時間があっても見入っていられる。来年の3月までの会期なので再訪は確実かと。